聖書を開こう 2018年4月19日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  命の主(マルコ5:35-43)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 若いときや健康であるときには、死についてあまり考えたりはしません。もちろん、人はいつかは死ぬものだということは、誰もが分かっています。しかし、自分の死について、切実に意識するようになるには、何かのきっかけが必要です。自分が重い病気にかかったり、親しい身近な人が突然事故で亡くなったり、そういうときに、ずっと遠くにあったはずの死の問題が、急に身近なことに感じられてきます。

 もし、自分の子供や孫が今にも死にそうなことにでもなったら、もうそれは身近な問題どころか、できることなら、自分の命を差し出してでも助けたい気持ちになってしまいます。

 きょう取り上げようとしている個所には、今にも病で娘を失いそうな父親が登場します。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 5章35節〜43節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と3人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう12歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。

 きょうの個所は先週取り上げた話の続きです。先週の個所では、一人の女性が割り込んできたために、すっかり足止めをされてしまった会堂長のヤイロでした。

 ヤイロは12歳になる自分の娘が死に瀕していたために、キリストに助けを求めてやってきていたところでした。キリストに来ていただいて、手を置いていただけるだけでも助かると思い、一刻も早く自分の家にイエスをお迎えしたかったはずです。しかし、ヤイロのそんな気持ちとは別に、途中でやってきた一人の女性にイエス・キリストの足取りが阻まれてしまいました。先週学んだとおり、この女性もまたイエスの助けを必要としていた人です。まして、誰かの邪魔をしようなどとは、少しも思ってはいませんでした。しかし、ヤイロにとっては少しの時間も無駄にはできないほど、娘の様態のことが気がかりだったはずです。

 この女性とのやり取りのためにどれほどの時間が流れたのかはわかりませんが、会堂長の家から使いがやってきて、娘の死を知らせます。これが、きょうお読みしたお話の冒頭部分です。この悲しい知らせは、その場の雰囲気を一瞬にして重苦しくしてしまったことでしょう。その場にいた誰もが慰めの言葉を失ったと思います。何よりも、当のヤイロ自身が言葉を失ったことでしょう。実際にヤイロ自身がどんな反応を示したのか、この短いストーリーの中には一言も書き記されてはいません。それだけに、このヤイロの苦悩がいっそう伝わってくるような気がします。

 けれども、この誰も何も語ることのできない雰囲気の中で、イエス・キリストが口を開きます。

 「恐れることはない。ただ信じなさい」

 「恐れることはない」という励ましは、旧約聖書の中で、何度となく神が信仰者たちを勇気づけて来た言葉です。困難な壁に突き当たり、怖じ惑う信仰者に「恐れることはない」と神は語りかけてくださいます。「恐れることはない。私があなたと共にいる」と神が約束してくださいます(創世記26:24、申命記31:6、イザヤ41:10、エレミヤ1:8)。

 その同じ言葉をイエス・キリストは失意と悲しみの中にいるヤイロに語りかけます。

 「恐れることはない。ただ信じなさい」

 「ただ信じなさい」というのは、ヤイロに信仰がなかったからではありません。ヤイロに信仰がなければ、そもそもキリストのもとに助けを求めてやってくることはなかったでしょう。ここでキリストはヤイロに信仰を持つように勧めているのではなく、既に確信しているところに留まっているようにと勧めていらっしゃるのです。信じつづけるようにとヤイロを促していらっしゃいます。なぜなら、疑いは恐れを生み、恐れは希望を見えなくしてしまうからです。

 さて、使いの者が「もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」といったにもかかわらず、イエス・キリストは数名の弟子たちを伴って、ヤイロの家を訪ねます。

 大声で泣き騒ぐ人々にイエス・キリストは「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」と語りかけます。このイエスの言葉に対する人々の反応は冷ややかです。「人々はイエスをあざ笑った」とあります。確かに、使いの者が報告したように、ヤイロの娘は死んでいたのです。「眠っているのだ」とおっしゃるキリストの言葉は、人々にはあまりにも唐突な言葉だったのでしょう。いえ、遅れてきた上に、「死んだのではない」とおっしゃるこの言葉に、人々はあきれ返ったのかもしれません。

 そのような人々の反応にもキリストはたじろがず、この亡くなった娘の両親と3人の弟子だけを連れて少女の寝かされている部屋に入って行きました。

 そして、「タリタ・クム」「少女よ、起きなさい」という一言で、この少女を生き返らせたのです。

 では、この驚くような出来事から私たちは、何を学ぶのでしょうか。このような奇跡が、キリストを信じることによって繰り返し自分たちにも起こることを期待すべきなのでしょうか。そうではないでしょう。

 この出来事を通して、イエス・キリストはご自分がまことの命の主であることをお示しになりました。たった一言で、人を死から命へと呼び戻すことができる権威を持ったお方です。それは、私たちが誰によって命をいただき、誰に対して生きているのか、ということを考えさせる出来事です。

 この少女の周りにいた人々は、自分たちの目に映った通りに、生きているとか、死んでいるとか、人を区別しています。しかし、人間にとって大切なのは、自分が誰によって生かされ、誰に向かって生きているのかということです。それを忘れて、自分が生きているなどと高慢に思うことも、また、他人を死んでいる、意味がないなどと軽々しく思うことも許されないのです。

 イエス・キリストと結びつくとき、本当の命を楽しむことができるのです。

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