メッセージ: それでも実を結ぶ種(マルコ4:1-20)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
福音書にはイエス・キリストがお語りになったたとえ話が数多く記されています。きょうから取り上げるマルコによる福音書4章には、神の国に関するたとえ話が、まとまって記されています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 4章1節〜20節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは30倍、あるものは60倍、あるものは百倍にもなった。」
そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。イエスがひとりになられたとき、12人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」
また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は30倍、ある者は60倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」
きょうの個所は、再び湖のほとりで群衆を相手にお語りになるイエス・キリストの教えが記されています。ガリラヤ湖のほとりで群衆たちに教えを施されるというスタイルはすでに2章13節に出てきました。そして、おびただしい群衆がキリストのところに押し寄せてくるために、小舟に乗って群衆から少し離れて対応するスタイルは3章の9節で既に出てきました。きょうの個所も同じようにガリラヤ湖の湖畔でおびただしい群衆に対して、舟の上から、湖畔にいる群衆に語り掛けます。それは3章9節にも記されているとおり、群衆に押しつぶされないため、という安全上の理由もありましたが、日中は湖から陸地へ向かって風が吹くために声が群衆の方へ届きやすいという理由もあったことでしょう。
このとき、イエス・キリストは農夫が蒔いた種の話を始めます。そこに描かれる話はまったく日常的な風景です。当時、誰もが目にしてきた農作業の様子です。ぼんやり聞いていれば、見たままの光景を話しているとしか思えません。特段、変わったオチがあるというわけではありません。
もちろん、現代の効率的な農作業から見れば、道端に種が落ちるような蒔き方はしませんから、変わった話しに聞こえるかもしれません。しかし、キリストがお語りになっているのは、ほんとうに当時の日常的な光景です。そうであればこそ、聞く群衆には、話の目的が見えてきません。群衆が予想したとおり、種はいろいろな場所に落ちて、鳥が食べたり、根が枯れたり、他の植物が邪魔をしたりして実りません。しかし、蒔いた種の全部がそうなってしまうわけではありません。むしろ、誰もが予想したとおり、時が来れば蒔いた種以上の収穫がもたらされます。
キリストの話はここで終わり、「聞く耳のある者は聞きなさい」と話を結びます。
これでは、ほんとうにオチのない話です。大多数の人々は、この話のどこに聞けというのか、と心の中で思ったかもしれません、何よりも弟子たちが、キリストが一人になられたときに、こっそりと話しの意味を尋ねやってきます。
キリストが解き明かされたたとえ話の意味はこうでした。
種蒔く人が蒔く種とは、御言葉のこと。道端に落ちて鳥に食われてしまう種は、御言葉を聞いても、サタンに御言葉が奪い去れてしまう人。石だらけの所にまかれる種とは、御言葉を聞いて最初は喜んで受け入れるけれども、艱難や迫害が起こるとすぐに躓いてしまう人。いばらの中に落ちた種とは、この世の思い煩いや富の誘惑でで、御言葉が覆いふさがれてしまう人。そして、良い地に落ちた種とは御言葉を受け入れて、豊かな実を結ぶ人のことである、と。
ここまで、解き明かされれば、なるほどと思います。けれども、そこから私たちは何を学ぶべきなのでしょうか。
サタンに御言葉を奪われないように気をつけましょう。迫害があってもしっかり御言葉を守ることができるように、根のある信仰を持ちましょう。そういうことでしょうか。
あるいは、あの人は最初はあんなに熱心だったのに、今はちっとも教会に来なくなったのは、きっといばらの中に落ちた種のように、この世の思い煩いに負けたに違いない、と人を裁くためでしょうか。
あるいはまた、自分はもしかしたら、迫害の時に信仰を捨ててしまう、ちょうど石地にまかれた種に違いない、
と、自分の信仰を疑うためでしょうか。
おそらく、どれもイエス・キリストが意図されたことではないでしょう。
この譬え話の中心点は、当時の農夫たちがそうであったように、収穫の確実さということにこそ、目を注ぐべきなのです。
今まで学んできたマルコによる福音書の中には、キリストの伝えた神の国の福音を阻もうとする動きがいくつもありました。そういった点にだけ目を注ぎ、心を奪われていくとしたら、神の国の完成に対して悲観的にならざるを得ません。けれども、神の国は良い土地に蒔かれた種のように、確実に何十倍、何百倍もの実りをもたらすのです。この点にこそ、わたしたちの本当の希望があります。わたしたちをくじこうとする状況はいくらでも見出すことができます。それらに対してなすすべを知らないのがわたしたちであるかもしれません。しかし、それで希望を失うわけではありません。それでも、豊かな実りがもたらされます。神の力を信じ、刈入れのときの豊かな収穫を、農夫たちと同じように信じて、期待しましょう。
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