聖書を開こう 2018年2月15日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  イエス・キリストは悪霊の働きか(マルコ3:20-30)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「これは悪霊の仕業だ」とか「今はサタンが働いている時代だ」という言葉を安易に使う人たちがいます。その人たちを決して非難するわけではありませんが、その発言が、聞いた人たちにどんな風に受け取られるのか、もう少し考えてほしいと思うときがあります。

 確かに自分たちにとって不都合な妨げとなることが起こるとき、その影響が大きければ大きいほど、そして、その原因が不可解であればあるほど、悪霊やサタンのせいにしてしまえば、ある意味、気持ちがすっきりします。しかし、そこには自分自身に目を向けて、深く考える姿勢が欠落してしまう危険があります。

 イエス・キリストと出会った人々の反応は、必ずしもキリストに対して好意的なものばかりとは限りませんでした。今日取り上げようとしている個所には、露骨にキリストを非難する言葉が出てきます。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 3章20節〜30節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

 きょう取り上げた場面は、身内の者たちがイエスを取り押さえに来る場面から始まります。というのは、「あの男は気が変になっている」という噂を耳にしたからです。

 イエス・キリストの身内の者たちが、その噂を真に受けて取り押さえに来たのかどうかはわかりません。街でそんな噂を耳にすれば、ことの真偽がどうあれ、ひとまずは身柄を確保するのは、身内のものとして当然のことでしょう。噂を真に受けて、というよりは、本人を心配する思いから、あるいは、世間体を気にして、ひとまずは世間の目から遠ざけたいという思いからやってきたのかもしれません。

 それにしても、どうして世間では「あの男は気が変になっている」という噂が立つようになったのでしょう。そんな噂を流す人々がどれほどイエス・キリストの教えや行動を知っていたのか怪しい限りです。噂とは、無責任にもそうやって広がっていくものです。

 ただ、人々がその噂を聞いて、そうかもしれない、と思うことが皆無ではなかったことでしょう。きょうの出来事を書き記す出だしの言葉に、そのヒントがあります。

 「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。」

 少なくとも、洗礼者ヨハネから洗礼を受ける前、ナザレで暮らしていたころのイエス・キリストには、食事をする暇もないほど忙しかったということはなかったでしょう。そういう時代を知っている者たちにとっては、食べる暇もないくらいに、駆けずり回っているイエスを見て、気が変になっているのではないか、と思ったとしても無理はないでしょう。

 「お宅の息子さん、最近なんだか様子が変ですよ。何かにとりつかれているみたいに、食べるものも食べずに、人の相手をしていますよ。大丈夫ですか」

 最初は、そういう親切心から出た言葉であったかもしれません。しかし、噂には尾ひれがつくものです。

 イエスの活動に対する悪い評価はまったく違うところからも出てきました。エルサレムから下ってきた律法学者たちは、イエス・キリストの活動に対して、こんな評価を下しました。

 「あの男はベルゼブルに取りつかれている」「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」

 これはもはや噂というものではありません。エルサレムからやってきた律法学者が公的な立場で表明した評価といってもよいでしょう。それは、単なる噂だった事柄にお墨付きを与えたようなものでした。

 しかし、なぜ、この男はベルゼブルに取りつかれている、と言えるのか。なぜ、悪霊の頭の力で悪霊を追い出していると断言できるのか、その理由は述べられていません。実際の場面では説明があったのかもしれませんが、ここには記されていません。

 マタイによる福音書も同じような記事を記していますが、そこにはファリサイ派の人々の言葉がこう記されています。

 「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」(マタイ12:24)

 「神の力によらなければ、こんな不思議なことはできない」というのなら話は分かりますが、これは悪霊の頭のちからだ、というのはおかしな発言です。もっとも、ファリサイ派の人々の立場に身を置けば、そうとしか言い逃れることはできなかったのでしょう。イエス・キリストが神から力をいただいているお方だということを認めれば、イエス・キリストに従わない自分たちの立場がないからです。

 イエス・キリストは自分に対するそのような間違った評価に対して、さっそくその矛盾点を指摘なさいます。

 もし彼ら律法学者の言うように、イエス・キリストが悪霊の頭で悪霊を追い出しているのだとすれば、それは自己矛盾していることになってしまいます。内部分裂の自殺的な行為です。

 むしろ、イエスの働きは、サタンを押さえ込むほどの力強い働きなのですから、そこから理解すべきことは、まさにイエス・キリストを通して神の国が勝利しているということでなければなりません。イエス・キリストの活動のそうした本質を見失ってしまうところに、わたしたちの心のかたくなさを思います。

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