聖書を開こう 2018年1月25日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  口実探し(マルコ3:1-6)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「ノリと理由はいくらでもくっつけられる」という言葉を聞いたことがあります。うまいこと言うなあ、と思いました。確かに、理由なんてものは、後からいくらでもくっつけることができます。

 たとえば、子どもが新しいおもちゃが欲しいと言い出したとします。欲しいというだけでは、買ってもらえそうもありません。子どもはあれやこれやと理由をつけ始めます。今までのおもちゃはもう自分には子どもっぽすぎて使えない、とか、このおもちゃがないとお友達から仲間外れにされるとか、いろいろ理由をつけ始めます。

 ただ、欲しかっただけなのに、理由をつけ始めるといくらでもくっつけることができます。

 きょう取り上げようとしている箇所には、イエス・キリストを何とかしようとたくらむ者たちの姿が描かれています。彼らが見ているものは、目の前にいる救いを必要としている一人の人ではなく、自分たちにとって鼻持ちならないひとりの男、イエス・キリストのことです。しかも、彼らが見ているのは、キリストの御業の素晴らしさではなく、キリストを訴える口実です。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 3章1節〜6節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。

 今、お読みしました個所は、前回取り上げた個所と密接につながっています。そこには、麦畑を通りすがら、安息日に麦の穂を摘んでいた弟子たちのことで、キリストを非難するファリサイ派の人たちのことが記されていました。そのとき、イエス・キリストは安息日に麦の穂を摘んでいた弟子たちを、けっして安息日の掟を破ったのではないと擁護されました。

 そういうことがあって、再び安息日が巡ってきました。礼拝のために会堂に集まる人々の中には、イエス・キリストの安息日理解を、ユダヤ教の伝統から逸脱したものとして快く思わない人々もいました。

 そして、会堂の中には片手の萎えた一人の人がいました。

 この片手の萎えた人に対する人々の思いは、様々あったはずです。たまたまこのとき、はじめてこの会堂にやってきたのだとすれば、その姿に憐みの思いを感じた人もいたでしょう。あるいは、毎週見かけているのだとすれば、ほかの人たちと変わらない、礼拝の出席者の一人として受け止める人もいたでしょう。

 しかし、それらの思いとは違って、イエスを訴えようと思っている人たちにとっては、絶好の機会のように見えました。もしかしたら、キリストは安息日を破ってこの人を癒すかも知れない、と。そこには、この片手が不自由な人に対する思いも関心も全くありません。人を陥れようなどと思う人の心には、人への愛も関心もないのでしょう。

 もし、その人たちが、本当に安息日の大切さを知っていて、それをみんなに守ってほしいと心からそう願っているのだとしたら、何を差し置いても、安息日違反が起こらないようにと、注意を喚起したはずです。

 しかし、彼らの思いは全く反対でした。むしろ、キリストがこの人を癒して、安息日違反を犯すことを半ば期待していました。注がれる視線は、片手の萎えた男にではなく、その男を安息日にもかかわらず癒すかもしれないキリストに向けられていました。

 自分を訴えようとしている者たちの心をキリストはご存知でした。キリストに注がれる視線が彼らの心の内を物語っていたからでしょう。

 キリストはこの片手の萎えた男を真ん中に立たせます。会堂に居合わせた人々は、これから何が起こるのか息をのんで様子を見守っていたことでしょう。

 イエス・キリストは人々に問いかけます。

 「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」

 このキリストの問いかけは、示唆に富んでいます。そもそも、安息日であれ、そうでない日であれ、善を行うことが禁じられている日などありません。同じように、悪を行ってもよい日など、1日たりともあるはずありません。人は善を行うようにと造られた神の作品です。

 安息日の規定が言う「何の仕事もしてはならない」とは、「善い業」もしてはならないという意味に理解しているのであれば、それこそ神の御心に反しています。

 キリストはさらに「善と悪」を「命を救うこと」と「殺すこと」に対比させています。もちろん、片手の萎えた人を癒すことが「命を救うこと」とは言えないかもしれません。彼らが「命を救うことは安息日に許されている」と答えたとしても、「しかし、命に別状がない障害を癒すことは、命を救う業ではない」とすぐに反論してしまうでことでしょう。

 ここでイエス・キリストが問題とされているのは、彼らの心の中です。あとに記されていることですが、片手の萎えた男を安息日に癒したことで、イエスを訴えようとしている者たちは、安息日にもかかわらず、人を殺す相談をしはじめます。何と矛盾したことでしょう。

 命に別状がない障害を癒すことは、命を救う業ではないから、安息日には許されないとしながら、普段の日でも許されるはずのない殺す相談は、安息日でもできると思っているのだとすれば、これほど神を冒涜する行いはありません。

 イエス・キリストの「命を救うことか、殺すことか。」という問いかけに、自分自身の心の中を点検することすらしなかったのです。彼らは、この問いかけに、自分たちの心の中の悪だくみに気がつくべきでした。しかし、自分たちの悪に決して気がつくことはありませんでした。彼らの心の中では、キリストは死刑に値するという結論が既に出来上がっていたからにほかなりません。

 キリストの問いかけに、彼らは答えようともしません。マルコによる福音書は「彼らは黙っていた」と記しています。そこに居合わせた誰かが答えてもよさそうです。しかし、皆、自分の身の安全を考えて、あえて答えようとしなかったのでしょう。そういう意味では、イエスを訴えようと様子をうかがっていた人たちだけがずるいのではなく、皆、自分のことしか考えていないということが明らかになります。

 この様子をご覧になったキリストは、怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、片手の萎えた人に、「手を伸ばしなさい」とおっしゃいました。キリストが人々に感じたのは、怒りだけではなく、怒りと悲しみでした。

 この日の出来事は、最終的にはキリストを十字架の上で殺してしまう事件へと発展します。かつて、神が弟を殺したカインに語り聞かせた言葉を思い出します。

 「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」(創世記4:7)

 罪人には罪を支配する力はありません。ただ、キリストだけが罪人を救い、命を与えることができるのです。

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