メッセージ: 安息日の理解(マルコ2:23-28)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
あるとき、こんな笑い話を聞いたことがあります。ある人が路を歩いていると「止まれ」と書いた道路標識がありました。それを見た一人の人が「これは絶対に守らなければならないルールだ。絶対に動いてはいけない。この標識を設置した人が『動いてもいい』というまで止まっていよう」と言い出します。それを聞いた連れのもう一人が言います。「いやいや、これは大変だ。止まれというからには、息も止めなければ、ルールを守ったことにはならない」と。
この話は、字義通りにしか物事を考えない人を皮肉った笑い話です。まさかそんなことをする人はいないと思われがちですが、そうではありません。聖書を読むときに、あまりにも字句の意味にこだわりすぎて、本質を忘れてしまう、ということは起こりがちなことです。
きょう、登場する安息日をめぐる議論も、突き詰めれば、本質を忘れた字句の意味をめぐる議論に問題の発端があります。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 2章23節〜28節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」
今お読みした個所と、来週取り上げようとしている個所は、どちらも安息日をめぐる問題が取り上げられています。安息日をめぐるキリストとユダヤの宗教的指導者たちとの対立は、この個所以外にも、福音書全体の中で、しばしば登場してきます(ルカ13:10以下、14:1以下、ヨハネ5:9以下、7:21以下、9:14以下)。そういう意味では、イエス・キリストは安息日について、その当時のユダヤ人たちとは明らかに違う理解を持っていたということができるでしょう。
このことは、後のキリスト教会が安息日の日取りを変更して、日曜日に礼拝を守る道を開くにあたって、少なからず良い意味での影響を与えただろうと思われます。
もちろん、キリスト教会が日曜日に礼拝を持つようになったのは、その日がキリストの復活した曜日であったから、ということと、もう一つは、キリスト教がユダヤ教の会堂を追われた、という外的な要因があったからでしょう。そのうえで、キリストが安息日に対して持っていた自由な考えと態度は、安息日の日取りをめぐる教会の決断を後押ししたことでしょう。
「安息日」という言葉が、聖書に最初に登場するのは、出エジプト記16章23節です。
モーセは彼らに言った。「これは、主が仰せられたことである。明日は休息の日、主の聖なる安息日である。焼くものは焼き、煮るものは煮て、余った分は明日の朝まで蓄えておきなさい。」
これは、荒れ野を旅するイスラエルの民に、神が食べ物として天から与えられたマナを集めて調理するときのルールでした。安息日にはマナを集める必要がないように、前日に2倍の量を集めることができるように神が配慮された、という記事に続く言葉です。
その後「安息日」という言葉が登場するのは、出エジプト記20章8節以下で、十戒の第四戒として、安息日を聖別し、「その日にはいかなる仕事もしてはならない」と定められています。さらに、その後に出てくる安息日をめぐる聖書の言葉は、「それを汚す者は必ず死刑に処せられる」というものです(31章14節)。
死刑に値するほどの重要な戒めですから、それを守ることに最大の関心が及ぶのは当然の成り行きです。その場合、どこに力点を置いて安息日を考えるのか、そこが大切なポイントです。
きょうの話に登場するファリサイ派の人々は、弟子たちが歩きながら麦の穂を摘んでいるのを見咎めて、それを安息日違反であると訴えます。彼らの最大の関心は、「その日にはいかなる仕事もしてはならない」というところにあります。何が仕事に含まれ、何が仕事に含まれないのか、その点に彼らの議論は集中します。
当然、彼らの視点では、二つの点で弟子たちのしたことは、安息日違反でした。
まず、前もって安息日の食事の準備を怠ったこと。次に我慢できない空腹になるまで旅を続けていたこと。そのどちらをとっても律法に違反する行為でした。
これに対して、イエス・キリストが安息日を守る視点は少し違っていました。もちろん、イエス・キリストは安息日を軽視してもよいとは一言もおっしゃいませんし、どんな仕事でも許されている、ともおっしゃいません。ただ、安息日の戒めの字句にこだわりすぎて、本質的なことがらが忘れ去られてしまうことに懸念を示されておられます。
キリストはアビアタルが大祭司であった時の故事を引き合いに出して、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」とお答えになります。
この答えは、いい意味での人間臭さを感じるかもしれません。あるいはそれをヒューマニズムの香りと言う人もいるかもしれません。しかし、この言葉を、すべて神の言葉は人間中心に解釈すべきだと言う意味に考えてはなりません。
問題なのは、神の言葉の権威を守ろうとして、人間が神の立場になって物事を考えてしまうという危険なのです。当時のユダヤ人たちは、こうすれば神は喜びなさるだろうと自分たちが考えたことを神のご意志そのものと取り違え、自分たちが考え出したことを神の権威と同等に扱っていたのでした。それは、本来の安息日の意味を見失わせてしまうような規定でしかありませんでした。
イエス・キリストは「安息日は、人のために定められた」とおっしゃいました。
考えても見れば、神は安息日を必要としているわけではありません。神は安息日が定められる前から神として存在されていたのですから、そのような定めを必要とされないことは明らかです。つまり、安息日の定めがあるのは、人間のために他ならないのです。安息日を通して、人間が神の創造の御業に触れ、万物の完成を心から神に感謝し、共に祝うことができるのでなければ、本当の意味で安息日を祝い守ったことにはなりません。そのような安息日の守り方でなければ、結局は安息日の意味が見失われ、人間の作った安息日の細かな規定に支配されてしまうだけです。
ところで、イエス・キリストは結論として「だから、人の子は安息日の主でもある」と締めくくりました。この言葉の意味は二通りに受けとめられています。「人の子」というのは、ユダヤの世界では「人間」というのと同じ意味でした。つまり、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」ということを受けて「だから、人は安息日の主でもある」と言ったに過ぎないと一方では理解することができます。
しかし、ここでの「人の子」をキリストご自身を指す言葉と理解するなら、どういう意味で、キリストは安息日の主なのでしょうか。
それは、イエス・キリストこそが罪の世界に染まった天地万物を回復し、完成をもたらすことができるお方だからに他なりません。少なくともクリスチャンにとっての安息日は、主イエス・キリストの救いを祝う主の日なのです。
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