もし、もし君が外で遊んでいるときに、鼻が通り過ぎたらどうしますか?
鼻がある誰かが、ではなくて、誰もいないけど鼻だけが、です。
鼻がある女性が、ではなくて、女性もいないけど鼻だけが、です。
鼻がある男性が、ではなくて、男性もいないけど鼻だけが、です。
そんなことがあったら、こわくないですか?
もし君がお家の中にいておもちゃで遊んでいるときに、突然手が2つ現れて家具を動かしだしたらどうしますか? ピアノを弾きだしたら?
おもちゃで遊び続けますか? 無理ですよね。
真っ青になって、ママやパパのところに走って行きますよね。
もし今夜お布団に入ったときに口が現れたらどうしますか?
口がある誰かが、ではなくて、誰もいないけど口だけが、です。
そしてその口が「早く寝なさい。明日はまた忙しい一日になるわよ」と言ったらどうしますか?
すぐ眠れますか? 無理ですよね? こわすぎて、一晩中眠れませんよね。
もし教会で座っているときに脚が現れて歩いてきて、君の隣に座ったらどうしますか?
にっこり笑って、「こんにちは」って言いますか?
無理ですよね。とびあがって叫んじゃいますよね。
なぜでしょうか。脚や手や口や鼻がこわいのはどうしてでしょうか?
脚や手や口や鼻はそれだけでいるはずがないからです。からだの部分だからです。
もしからだからはずれたら、なんだかとてもおかしいのです。
君が行く教会をからだだと考えてみてください。
そして、教会の人たちをからだの部分だと考えてみてください。
ひとりは手で、オルガンを弾いたり、献金を集めたりします。
ひとりは口で、聖歌隊で歌ったりメッセージを語ったりします。
ひとりは脚で、入院している病気の人たちにお見舞いに行ったりします。
ひとりだけで、これを全部できるでしょうか?
オルガンを弾きながら聖歌隊で歌い、メッセージを語りつつ献金を集め、お見舞いに行けるでしょうか?できませんね。みんなで一緒にならできるのです。
手は鼻に「あなたなんかいらない」とは言えず、口は脚に「あなたなんかいらない」とは言えません。
お互いにお互いが必要なのです。一緒にひとつのからだになるのです。
一緒に私たちはキリストのからだになるのです。(訳:木川美来)
「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」
(新約聖書 コリントの信徒への手紙一 12章27節) くまだなみこ