先日、「注文の多い料理店」序文にある言葉を知り思わずメモしました。私が持っている本は子供用なので序文がありません。あなたの本棚にあったら教えてくださいね。こんな言葉でした。
「わたしたちは氷砂糖をほしいくらい持たないでも、きれいに透き通った風を食べ、桃色の朝の美しい日光を飲むことができます。けれども私はこれらの小さい物語の幾切れかが…あなたの透き通った本当の食べ物になることをどんなに願うかわかりません。」という宮沢賢治の言葉。賢治は「透き通った本当の食べ物」が子どもたちの心に届くように物語を書き綴ったのですね。
生きるって「ことば探し」をしているような想いになりませんか?本を読んだり、お話や音楽を聴いたりすると新たな出会いがあって、自分の中に言葉が零れ落ちてくるような気がします。そこからピカッと閃くと嬉しくなりますね。
でも私たちの心を映し出す言葉に苦しむこともありますね。ちょっとした言葉で人間関係が壊れてしまう。私が聖書を読み始めたころ、イエスさまのお語りになった言葉にショックを受けました。「人から出て来るものこそ、人を汚す。…悪意、ねたみ、悪口…」(マタイ7:21)聖書が語る人間の現実。思い出すと「あの一言が許せない!」という経験が誰にもあるでしょうね。いじめもそうです。言葉の暴力。自分がずっとその言葉に苦しめられ悩まされ、引きづってしまい…復讐をしたいと思ったりするのです。
美味しい言葉を語るには?見つけるには? イエスさまの厳しいお言葉をしっかり心に刻んでみることが始まりです。自分のことばかり考えてしまうこの私もまた同じだ!と気づかされるのです。
「ごめんなさい」と「ありがとう」は心を開く言葉。神様との関係が正される時、初めて人間関係も回復するのですね。
「あなたの御言葉が見いだされたとき、わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御ことばは、わたしのものとなり、わたしの心は喜び踊りました。(エレミヤ15:16)。 くまだなみこ