おはようございます。南与力町教会牧師の坂尾連太郎です。
本日は旧約聖書にあります詩編2編の御言葉に耳を傾けたいと思います。
12節には「子に口づけせよ」という言葉があります。「口づけ」と聞くと、恋人や夫婦の間で交わされているものだと思われるかもしれません。しかし、聖書においてはもっと広い意味で「口づけ」が行われていたようです。
それは家族や友人への愛情を表す行為として行われていました。
わたしには2歳の息子がいますが、母親に対して1日に何度も口づけをします。わたしにもたまにはしてくれます。彼なりの愛情表現なのかもしれません。
また聖書において「口づけ」は敬意や従順を表す意味もあります。特に王に対する口づけは、自らの従順を表すしるしです。この詩編で「子に口づけせよ」と言われているのは、その意味です。
7節で神さまは、ご自分が即位させられた王に対し「お前はわたしの子」と宣言しています。それゆえ「子に口づけせよ」とは、その神様の御子、神様が即位させられた王に「口づけせよ、従順を示せ」ということなのです。
そして新約聖書の光に照らすならば、イエス・キリストこそが神によって立てられた王であり、神の御子です。イエス様が洗礼を受けられた時、「あなたはわたしの愛する子」という声が天から聞こえた、と福音書に記されています。この神の御子イエス・キリストに口づけせよ、従順を示せ、とこの詩編は勧めているのです。その理由として「主の憤りを招き、道を失うことのないように。主の怒りはまたたくまに燃え上がる」と言われています。神の御子に口づけしないならば、神の燃えるような怒りを招いてしまうのです。それはなぜでしょうか。
1節から3節には、こう記されています。
「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち、人々はむなしく声をあげるのか。なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して、主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか。『我らは、枷をはずし、縄を切って投げ捨てよう』と。」
このことは、主イエス・キリストにおいて実現しました。ポンティオ・ピラトやヘロデといった地上の支配者たちは、神様が王として油注いだイエスに逆らい、十字架につけて殺してしまいました。
しかし、このことはわたしたちと無関係ではありません。わたしたちがもし、神様とキリストのご支配を、自分を縛る縄や足枷のように考え、それを引きちぎって、自由に生きていこうとするならば、わたしたちも同じ反逆の罪を犯しているのです。神様の束縛を引き裂いて、自分の思うままに、自由に生きていこうとするとき、実はわたしたちは罪の奴隷となっているのです。そしてそのように、神とキリストに反逆し続けているならば、終わりの時に、神様の怒りと裁きを受けなければならないのです。
なぜならば、キリストは十字架で殺されたままではなかったからです。神が3日目にこのキリストを復活させられ、ご自分の右の座に上げられました。そうして人々の反逆にもかかわらず、神様ご自身がイエス・キリストを王として即位させ、同時に「お前はわたしの子。今日、わたしはお前を生んだ」と宣言されたのです。
そして親が子に相続財産を与えるように、神はご自分の御子に全世界を相続財産としてお与えになりました。この王であり神の御子であるイエス・キリストの裁きに、全世界が服することになるのです。そのときに、怒りを招かないように、わたしたちは今、神の御子に口づけし、従っていく必要があるのです。
この詩編の最後は次の言葉で締めくくられています。
「いかに幸いなことか、主を避けどころとする人はすべて。」(12節)
神様の怒りが燃え上がる日にも、主を避け所とするすべての人は幸いです。なぜならば、主イエス・キリストはご自分に口づけし、身を寄せるすべての者を、神の怒りの炎から守り、救い出してくださるからです。この幸いへと神さまはわたしたちすべてを招いておられるのです。