おはようございます。平和の君教会の山下です。続けてお聞き下さり、感謝しています。
昨年、私自身の救いの証し、どのようにしてクリスチャンになったのかをお話ししましたところ、思いがけず知り合いの方からおハガキを頂きました。どうもわたしがクリスチャンホーム出身でないことを知らなかったようで、牧師だからきっと親もクリスチャンで、その道をそのまま進まれたのだろうと受け取られていました。
もちろん聖書のお話をするだけで充分なのでしょうが、一体誰が話しているのか、その人はどういう人生を歩んできたのかを知ると、もっと関心も深まり、親近感も増し加わってくると思います。今朝も少し、その事に触れたいと思っています。
先日ですが、広島市のある教会を会場に「障がい者と教会」問題を考える集いが持たれ出席しました。すでに集会は始まっており、礼拝堂は一杯で、講師の視覚障がい者の方のお話に熱心に耳を傾けておられました。その講師の方は全盲の方で、障がいを負うということはどんなことなのか、どういう事で困り、どんなことで助けられたのか、具体的に分かり易く話されて、あっという間の1時間でした。
その中で特に印象に残ったのは、盲人が町で一人歩いているということで、いろいろ助けて下さるのですが、却って困ることが時々あるそうです。どんな場合かと言うと、折角横断歩道を渡り切ったのに、わざわざ親切に元のところへ連れ戻されたとか、また誰かよく分からずに引っ張られるので、とても不安な思いになったとか、当事者ならではのハプニングをユーモアたっぷりに言われたのです。
私たちが障がい者の方に出会ったとき、何か特別なことが出来なくても、先ず自分の名前を伝えるだけでも視覚障がい者の方は、大変安心されるとのことです。何だそんなこと、と思われるかもしれませんが、コミュニケーションの第一歩なのですね。自分の側の気持ちや考え、都合を優先して、相手の事情や意志を無視するのは、善意の押しつけとなってしまいます。たとえ障がいを持っていても、一人の人間として、その意志を先ず尊重する、その人が為し得ることまで勝手に取り上げない、これは基本的人権のイロハであり、民主主義の精神ではないかと思わされました。
そしてその方は続けて、戦争は絶対にしてはならない、と言われたのです。それは戦争による一番の犠牲者は障がい者なのだということだからです。実際戦時中にあったお話ですが、視覚障がい者の方の耳が優れているのを利用して敵機の来襲を聞き分ける役目をさせる、またマッサージができるので、兵隊の肩こりなどをほぐすために戦場に送り、何かあれば置き去りにされることもあったそうです。
ますます格差が広がり、熾烈な生き残り社会になっている現代において、障がい者に対する優しさは、どんな人にとっても居心地のよいものになるはずです。上昇志向の高まる中、案外たいせつなのは足元の方ではないか、そのことを強く思わせられています。
私も子どもの頃、よくいじめられた側で、それは自分が弱いからではないかと思ったのですが、実は社会の方が間違っていたのであって、その時代の縮図が表されていたことを今になって気づかされます。障がいを持って良かった、障がいを持つ子を育てて幸いだった、何故ならそれによって忍耐強くなり、柔和になり、人に優しくなることを誰よりもよく学ばされたから、と当事者の方は言われます。神様が、障がい者をこの世に置かれておられることの意味と目的とを深く覚えさせられています。