おはようございます。高知県にある山田教会牧師、高内信嗣と申します。
みなさんは持久走を走った経験はありますか。私は高校生の時のことを思い出します。
冬のシーズン、体育の授業の度に学校の周りを3周、走らされました。学校の敷地が大きかったので、3周はかなりの距離がありました。ですから授業の時間内に完走できる人は、スポーツのできる人ばかりでした。私みたいな運動不足の人間は完走することが出来ません。躓いてこけてしまうことなど何回もありました。また、ある人は走ることすらせず、ずっと歩き続ける人もいました。極めつけは、持久走の最中に家に帰ってしまう人もいたのです。このような持久走があっていいのかと今もモヤモヤしています。
さて、今朝の聖書の言葉(ヘブライ12:1〜2)はこう語っています。
「自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか」
そうです。今朝の聖書の言葉もテーマは持久走です。しかし、ただの持久走ではありません。私たちの人生を走るということです。そしてただ人生をやみくもに走るのではなく、神様が待っている天国を目指す持久走です。
しかし、天国を目指す持久走も、簡単ではありません。私の高校時代の持久走と同じように、いろんな障害があるのです。完走することは容易ではありません。
それはなぜかと言いますと、私たちには、心萎える現実があるからです。頑張りたくなくなる時があるのだと思います。消え去らない悲しみが心を占めておられる方々は、なおさらだと思います。
持久走で例えるならば、躓いて倒れてしまったり、道にそれてしまったり、途中で帰ってしまったり、もう走りたくない!と思う現実が私たちにはあります。それほどまでに私たちに絡みつく重荷は大きいものなのかと思わされます。
だからこそ、本日の聖書箇所はこのように語るのですね。「イエスを見つめながら」、イエスを見つめながら走ろう。そのイエス様は「恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍」んだとあります。汚れていて、もう滅びるしかない私たちを、それでも愛そうと、それでも救おうと、イエス様は恥を気になさらず、人々のあざけりものとなり、十字架に架かってくださいました。
別の聖書の箇所でこのようなことが言われています。
「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブライ2:18)
イエス様の十字架での恥と苦しみは、私たちが体験する苦しみと比べることが出来ません。大きな苦しみを受けたイエス様は、私たちの苦しみをよく分かってくれています。人生でつまずく人々と共に苦しんで下さって、その手を握ってくださいます。
イエス様を見つめるならば、大きな苦しみを受けたイエス様が私たちの苦しみを助けてくださり、寄り添ってくださっていることを知ることが出来るのです。
このお方がいる時、私たちはどんなに人生が困難だとしても走っていけます。イエス様に手を引かれながら、その後ろ姿を見つめながら、1メートル、1メートルずつでいいから、私たちは自らの道を走っていきましょう。