おはようございます。高知県にある山田教会の牧師、高内信嗣と申します。この朝もひと時、神様の御言葉に耳を傾けましょう。
昨年、全国のクリスチャンの青年たちが集まる修養会に参加したのですが、2日目の朝、早く目が覚めてしまったので、同じく早起きをしていた友人と一緒に外に出てみました。すると友人は「今から、野花の名前を当てるゲームをしよう。」こう言いました。
時間がありましたのでやってみることにしました。野花の知識がない私たちは、全く花の名前が分かりませんでしたが、インターネットで調べつつ、花の観察を続けました。その時、普段、私たちが見過ごしている、小さな、小さな花であってもこんなに綺麗なんだなあ。そのように思わされたのです。
今朝、開いた聖書の言葉(マタイ6:28〜30)の中で、イエス様は、生きるために必要なことに必死になって悩んでいる人々の目線を、神様のお造りになった世界に向けさせています。
私たちは忙しくなったり、悩んでいたりしてしまうと自分のことでいっぱいになって、周りが見えなくなります。まして、野の花のことなど、視界にも入りません。ですが、あえてそのように見過ごされる、そして明日は引き抜かれるかもしれないちっぽけな野の花に、イエス様は私たちの目線を向けさせてくれます。
「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、」
私は恥ずかしながら、学生時代、外見に悩み、いつも外見のことを気にしていた時期がありました。人にかっこよく見られたい。少しでも、綺麗に見られたい。人は外見ですべて判断される。そのように思っていました。よりいっそうファションを気にし、髪形を気にして生きていました。人に良く見られたい。人より綺麗でありたい。そのうち、人の目線ばかり気にして生きていたように思います。そのような感情を抱いたことはないでしょうか。
しかし、イエス様は、明日引き抜かれてしまうかもしれない、明日無くなってしまうかもしれない野の花であっても、神様は綺麗にしてくださっていると言います。私たちがふと見る小さな、小さな野の花であってもとても綺麗です。神様は小さな野の花であっても美しく造ってくださっているのです。だから、野の草であっても綺麗ならば、あなたたちはなおさらではないか。このようにイエス様は言うのです。
別の聖書箇所で、神様はこのようなことを語っています。
「我々にかたどり、我々に似せて人を造ろう。」(創1:26)
人間は神様によって造られました。その人間が造られる時、神様は「われわれに似せて」と語られたのです。
また旧約聖書の詩編に「人の子は何ものなのでしょう…あなたは神に僅かに劣るものとして人を造った」(詩編8:5-6参照)とう詩があります。
この作者は「人間は何ものなのか。」という問いを掲げ、人間は神様に僅かに劣る存在だと、それほど素晴らしい存在だと悟り、感謝を歌いました。
小さな野の花であっても神様によって造られたものであるから、綺麗であります。その野の花が綺麗であるならば、神様に僅かに劣る者として形作られた私たちは、綺麗でないはずはないのです。どんなに高級な衣装を着ようとも、人に美しく見られようと頑張ったとしても、私たちの存在そのものの値打ちは、その装いの美しさをはるかに超えるのです。
今日、時間があれば、ぜひ外にある野の花を眺めて下さい。とても綺麗だと思います。そして、私たちはもっと美しいのです。神様によりかけがえのない者として造られた私たちの存在そのものを、誇りとして生きて行きたいと思います。