おはようございます。松山教会の久保浩文です。
私たちは、この地上の生涯を生きていく上で、様々な価値基準、尺度で人生を計っています。お互いが評価しあい、優劣をつけることで、人を傷つけ、時には立ち上がれなくなるほどの痛手を与えることもあります。
しかし、その価値基準は、だれが何を基準にして決めるのでしょうか。私たち人間の間には、絶対的な評価基準など存在しないのです。私たちは、一人一人が神様によって造られた、大切な人格をもった存在です。たとえ、私の人生が人から正しく評価されなかったとしても、他の人の目にもふれず、目立たないような小さな働きまでも、神は覚えておられ、正しく評価して下さるのです。神は、私たちをこの地上に生まれさせてくださった方です。
聖書の詩人はこう言っています。「あなたは、私の内臓を造り 母の胎内にわたしを組み立ててくださった。」(詩編139:13)
母の胎内にいる時から神は、私たちのすべてをご存知です。神は私たちの人生の大きな計画、設計図を描いておられます。そして一人一人に、その人にしかない個性、能力を与えておられます。ですから、他人と比較して、自分には何の取り柄もない、と悲観することもありません。神は、私たちにしかない人生を、この地上にある限り、その生涯の全てにおいて導いて下さるのです。
私たちは、神に造られたものでありながら、そのことを忘れて生きていました。自分の力で、自分の好きなように生きているつもりでした。うまくいかないのは、自分に力がないから…周りが悪いから…のように思うしかありませんでした。その私たちを再び神のもとへと導いて下さるのは、神の御子イエス・キリストです。私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかり、復活してくださったイエス・キリストにあって、私たちは再び神に導かれる人生を見出すことができるのです。
もちろん人生は、楽しいとき、よい時ばかりではありません。先週お話しした、パウロという人も、人もうらやむエリート人生から、復活のイエス・キリストと出会ったことで、180度人生が変わりました。キリスト教を宣べ伝えるために、過酷な旅をし、貧しさにも耐え、投獄の憂き目にも遭いました。それでもパウロは、「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」(フィリピ1:20-21)として、キリストに従う人生のすべてを喜びとしました。
現代を生きる私たちは、全く違う状況にあるように思えますが、神のご計画とご配慮のうちにある人生、という点では違いはないのです。先の詩編の続きにはこうあります。「あなたの御計らいは わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。」(詩編139:17)
たとえ苦しい日々があっても、その時にはわからなくても、必ず意味があると思える人生。造り主である神が一人一人のために用意された人生、あなただけの人生があることを、きょう、覚えて頂きたいと思います。