いかがお過ごしですか。船橋高根教会の牧師の小峯明です。
罪という言葉は、もともとは的を外しているという意味の言葉です。的を外すことは、弓道やアーチェリー競技などを考えるとよく分かるでしょう。矢が的に当たりません。
それでは、わたしたちの人生の的とはなんでしょうか。それは自分の目標や夢かも知れません。しかし、できもしない目標や夢を的に掲げて人生を棒に振るとしたら、家族も本人も気の毒なことになります。けれども、その的が正しかったのか、間違っていたのかは後にならないと分かりません。
聖書が語る罪は、自分の目標や夢を的として生きることではありません。聖書が語る的とは神と共に生きる人生です。神と共に生き損なっていると的を外した生きかたになります。神の愛を無視し、神と共に生きない姿を聖書は罪と語ります。
そんなことを勝手に決めるなと思われるかも知れません。けれども、そこに既にずれがあります。的を外す最初の一歩があります。それはわたしたちが自分のことから考えるのか、神様から考えるのかというスタートラインの相違です。
先日、あるキリスト者の葬儀を行いました。その方は、息を引き取る少し前に、息子さんの手を握り「キリストの平和はすばらしい。キリストの平和は真実だ。キリストの愛はすばらしい。」と語られました。そしてその後安らかに息を引き取られました。
イエス様に感謝し、イエス様を賛美して人生を終える秘訣は、イエス様による罪の赦しに与り、神と共に生きることです。最後をどう迎えるかは、今どう生きるかに関わっています。
イエス様はわたしたちの罪を赦すために来られました。的を外さない生きかたを与えるために、イエス様はわたしたちを招き、罪の赦しを与えてくださいます。