ごきげんいかがでしょうか。草加松原教会の川杉安美です。
神様は、聖書という形の神の言葉によって人に語りかけます。神様の側が語りかけても、人間の側の受け取り方によって、結果が大きく違ってしまいます。そのことを、イエス様はたとえを用いて教えられました。
畑に種を蒔きます。その種は、根を張り芽を伸ばし、順調に育ったかに思えました。しかし、あとからそこに茨が伸びてきて、覆って、ふさいでしまいます。結局実を結びませんでした。
このたとえの種は、神の言葉を示しています。伸びてきた茨は「この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望」です。つまり、神の言葉が人の心に蒔かれますが、その人の心がこの世の思い煩いや富の誘惑や色々な欲望にとらわれてしまい、結局神の言葉が実を結ばないということです。
これは、なかなか難しい問題ではないかと思います。よほどの聖人君子でない限り、何かに心がとらわれてしまうということはあるのではないでしょうか。富でなくても人の評判、健康、名誉、社会的地位や何かの成功、大事な人間関係。そういうこと自体が悪いのではありません。それに心がとらわれて、神様の言葉を捨ててしまうことが駄目なのです。
イエス様は別の機会に、次のように祈ることも教えられました。「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」マタイ6章13節です。
そのように祈りながら、誘惑や欲望にとらわれないようにして、神様の言葉に聞き従っていくのです。そうするならば、豊かな実りが、生活に、人生に、もたらされるのです。