ごきげんいかがでしょうか。草加松原教会の川杉安美です。
キリスト教は言葉の宗教と言われることがあります。というのも、聖書の言葉を通してイエス・キリストのことが伝えられ、教えられるからです。聖書を神様の言葉と信じて、神様を知っていくからです。中にはそのことがもどかしくて、理屈はいいから神がいるなら見せてみろと、おっしゃる方もおられます。
あるいは、これを拝めばいいと、作られた像を示す方もおられます。しかし私は、言葉で伝えられることで、神様は本当に生きておられると示されると思うのです。神様は知識も、意志も、感情もある、人格的なお方だということです。そのお方が語る言葉を、知識も意志も感情もある人間が受け止めていくということです。そのように人格と人格の出会い、交わりは、言葉によってこそなされるのではないでしょうか。
人間同士も、ただ顔を見合わせているだけでは、お互いどういう人か、どういう考えを持っているか分かりません。言葉を交わして語り合いを深めていくことを通して、お互いの理解が深まっていくものです。人間と動物や人間と機械では、そういうことはできません。相手に人格がないからです。
キリスト教は、聖書という神様の言葉を通して、神様からの語りかけを聞き、祈りを通して神様に語りかけていくのです。そういう人格的な交わりを通して、生ける真の神様を知っていくのです。
テサロニケの信徒への手紙一 2章13節にある聖書の言葉
「事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。」