いかがお過ごしですか。船橋高根教会の牧師の小峯明です。
困った時の神頼みという言葉があります。しかし、その困難があまりに大きいと、神に頼むどころか、神から離れてしまうことも起こります。困った時の神離れということも起こるかも知れません。
神様、神様と毎日祈っていても、事態が解決せず、ますます酷くなる時に、わたしたちは途方に暮れてしまうかも知れません。そのような時には時間が解決してくれるのを待つしかないのでしょうか。
旧約聖書の中で、ヨブと呼ばれる信仰者に厳しい試練が襲いました。ヨブはサタンの試みに会いました。その中で、ヨブは「なぜ、わたしは母の胎にいるうちに、死んでしまわなかったのか」(ヨブ3:11)、「なぜ…」「なぜ…」と神様に問い続けます。そして神様に嘆き、祈ります。「なぜわたしと争われるのですか」(10:2より)
神様に嘆くことは不信仰でしょうか。そうではありません。神様は、わたしたちの祈りを待っておられます。ヨブは苦しみの中で諦めて沈黙することはありませんでした。自分の力でどうすることもできない危機の中で、諦めることはありませんでした。ただ、神様に救いを求めて嘆き、何故ですかと問い続けました。神様を信じていたからです。わたしたちは神様に嘆いてなぜですかと尋ねてよいのです。神様の答えはイエス様です。
しかし、その答えをわたしたちが真実に見いだすまでは嘆き悲しみ、問うことが許されています。主よ、何故ですか。信仰は、忍耐もありますが、諦めではありません。問いつつ、祈り、嘆きつつ祈り、神の答えを待つ営みです。諦めないで、神に祈り続けましょう。神は真実の答えを与えてくださいます。