いかがお過ごしですか?川越教会の木村恭子です。今週は「お祈り」について考えています。
信仰生活の長いかたでも、祈れなくなるという経験、ありますよね。祈る材料、祈りたいこと、祈るべきこと、たくさんたくさんあるんです。それなのに、心を静め、目を閉じて祈ろうとすると、いろんなことが頭に浮かんできて、頭の中でグルグル回り出し、整理が付かなくなってしまう。そして結局、心は神から離れて別のことを考えている自分に気付くのです。これはもう、祈りのスランプです。
ある本に「祈りは信仰の息」と書かれていました。信仰があれば、呼吸をするように自然に、祈りが出てくるということでしょうか。そうだとすれば、祈りのスランプは、信仰のスランプでもあるかもしれません。
けれど新約聖書、ローマの信徒への手紙8章26節にこう記されています。
「“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」
祈りの言葉が出せない私のために、聖霊が働いてくださる。言葉にできない思い、苦しみや辛さ、焦りを、聖霊が神に届けてくださる、執り成してくださるというのです。
ですから、祈れない時には無理に言葉にしなくてもいい。その思いはすでに神に届いているからです。