いかがお過ごしですか。新座志木教会の杉山です。
主イエスは、ある時、ご自身がパンなのだといわれました。そればかりではなく、そのパンというのは自分の肉だ、ともいわれ、また、ご自分の「肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちのうちに命はない。」と言われました(ヨハネ6:53参照)。そして多くの人が、この話を聞いて「なんとひどい話だろう。」と言って、主イエスのもとを去っていきました。それはまるで、人肉食を思わせ、そしてまた、実際にあり得ないことを語っているように聞こえたからです。
私たちにしましても、人間の血はもちろん、動物の血であっても、飲みたいとは思いませんし、まして、人肉を食べるなどということは思いもつきません。もちろん、主イエスもまた、実際的な意味で、ご自身の、肉を食べ、血を飲め、と言われたわけではありません。そうしますと、この言葉について、額面通りに聞いてしまって「なんてひどいことを」と言って怒るのはそもそも、聞き方が間違っているということになります。
では私たちはこの言葉をどのように聞くことが出来るでしょうか。教会では、この言葉を聖餐のぶどう酒とパンと結びつけて理解します。しかし、その場合でも最も大切なことは、そこで何が起きるか、です。
主イエスが言われたもう一つの言葉を確かめます。それは私たちがパンとぶどう酒として主イエスを食べるなら、主イエスが私たちの中に、また、主イエスの中に私たちが、お互いがお互いの内にいるようになる、という言葉です。