いかがお過ごしですか。新座志木教会の杉山です。
主イエスはイスラエルの祭りの時に、大声をあげて言われました。
「渇いている人はだれでも、私のところに来て飲みなさい。」(ヨハネ7:34)
この言葉は、はるか昔の荒れ野の出来事をもとにしています。
エジプトを脱出したイスラエルの人たちは、荒れ野で飲み水を求めてさまよっていました。そこで神様は、岩から豊かに泉を湧きあがらせて、彼らが十分に水を飲むことが出来るようにしてくださいました。
それと同じように、最もこの場合には泉はたとえですが、渇いた人が新鮮な泉の水を飲んで満足するように、主イエスの所には、命を、人生を生き生きとさせるすべての力が湧いてくる、と言われたのです。
私たちの生活には、大小さまざまに、がっかりとするようなこと、なんでこうなるのかと思うようなことが度々起こってきます。そして多くの場合、私たちは、ちょっとした休憩やレジャーといったもので、嫌なことを忘れてやり過ごしています。
けれども、忘れたつもりの不満や恐れは心の深いところで働いて、命を削りつづけ、やがては生きる力そのものが枯れて行ってしまうかもしれません。そして、生きる気力が失われることは、肉体の衰えよりも、時に決定的に私たちの人生を破壊することになるのかもしれません。
しかし、主イエスは、ご自分と出会うなら、その人の中から、泉がわくようにして、「生きた水、生きる力が川のように、流れ出てくる。」と言われたのです。