おはようございます。仙台教会の風間義信です。
突然「愚かだなぁ。」などと言われますといい気持ちはしません。
ところが、聖書はこの言葉を使って、最も大事なことを伝えようとしています。それがイエス・キリストの十字架です。
イエス・キリストが十字架につけられた時、回りで見ていた人たちは、何て愚かなんだと思いました。「他人は救ったのに自分は救えないのか。」とののしり、苦しむ姿をあざけり、さげすみました。まさに愚かさの極みにある者の惨めさを見るような感じです。
しかし、この姿こそ他ならぬ私たちの身代わりでした。イエス・キリストの十字架に向かって浴びせられるののしり、それこそ知らず知らずのうちに人の心の奥に溜まっているものです。それを聖書では罪と呼んでいます。その自分でも気づかない、また抑えきれないものを、イエス・キリストがすべて受け止めて、この罪からの解放をしてくださったのが十字架です。
その姿は愚かに見えるかもしれません。けれども、その愚かさが私たちには解決することのできない罪を負ってくださったためであることを知る時、ここに本当の賢さを得ることになるのです。