メッセージ: わたしについてきなさい(マルコ1:16-20)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
イエス・キリストを知るきっかけは、人それぞれにあると思います。もちろん、知るといっても、聞いたことがあるという浅い知り方と、自分の人生に深い影響を与えるほどに知るというのでは、まったく意味合いが違います。しかし、どの知り方にしても、出会いのきっかけがなければ、知りようがありません。
聖書の中に記された人々とキリストとの出会い方は、千差万別です。今日お読みする個所には、最初の弟子たちがイエス・キリストと出会ったいきさつ記されています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。聖書の個所はマルコによる福音書 1章16節から20節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。」
イスラエルの北部にガリラヤ湖という湖があります。イエス・キリストが洗礼を受けられた場所、ヨルダン川はこの湖から南へと流れています。ガリラヤ湖の大きさはざっと日本の猪苗代湖と十和田湖を足したくらいの面積で、たくさんの魚が取れるので、湖の周りには漁業を営む人たちが大勢暮らしていました。イエス・キリストの時代より少し後に書かれた歴史書によれば、230隻もの船がこの湖で活動をしていたそうです。きょうのお話の舞台となるのはこのガリラヤ湖の北側、時計で例えれば、丁度12時当たりの岸部です。
きょうの場面で登場する四人の人物、シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネの兄弟は、このガリラヤ湖で漁師を生業とする人々でした。ちなみにシモンはまたの名前をペトロといいました。キリストの弟子の中で、のちに中心的な人物となった人です。
これからお話しする出来事は、日々の生活の中で、いつもと同じような暮らしを続けている中で起こりました。何か劇的な事件があったというわけではありません。漁師として湖に網を打っている人、漁を終えて網を繕っている人、そんな人々の生活の一場面の中にこれらの四人の人物はいました。
もちろん福音書に記された出来事は、どれも凝縮されて語られているので、イエスがこの場所を通りかかったのが、初めてことなのか、それとも、何度もここを通られ、シモンたちとは顔なじみであったのか、そのことははっきりしません。常識的に考えれば、まったく見ず知らずの人から声をかけられて、その人の後をついていくということは、普通はないでしょう。ただこの福音書では、ある日の場面として、それ以上の説明もなくきょうの出来事は描かれています。
湖で網を投げ打つシモンとアンデレに目を止められたイエスは、この二人をご自分のもとに呼び寄せます。
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」
唐突とも思えるこの呼びかけに、兄弟二人はそろってイエス・キリストに従います。
マルコ福音書にとって大切なのは、この二人が前々からの顔なじみであったかどうか、また、イエス・キリストの話を何度も聞いていたかどうかと言う事細かな説明ではありません。「わたしについてきなさい」と呼びかけるイエスと、その言葉に応答してすぐさま従う弟子たちの姿が浮き彫りのように描き出されています。
さきほど、キリストとの出会い方は千差万別だということをお話ししました。確かにキリストとの出会いは様々です。ここに登場する二組の漁師でさえ、同じように見えて、決して同じではありません。一方は漁の真っ最中に、もう一方は漁を終えて網の手入れをしているときにキリストの呼びかけを聞いたのです。出会いのパターンは千差万別でも、どのストーリーにも共通することは、人生のある時点で、キリストが彼らに呼び掛けたということと、その呼びかけを確かに聞いたということです。
このキリストの呼びかけ、「わたしに従って来なさい」という呼び掛けを、心の耳を澄まして聞き分けること、そのことがとても大切です。
しかも、ここに登場する人々は、普段と何の変わりもない、日常の生活場面の一コマの中で、キリストの呼び掛けを聞いたのです。何か大きなきっかけばかりを期待していると、わたしたちの日常生活の中で呼びかけてくださるキリストの声を聞き逃してしまうかもしれません。すでに呼ばれているのに、わたしたちの耳がそれを拒んでしまうこともあるかもしれません。
あの弟子たちに呼びかけたように、イエス・キリストは何の変哲もない日常生活のさなかで、わたしたちに声をかけてくださることもあるのです。
さて、キリストがこの四人を選ばれたのは、特別な働きを与えるためでした。それは人間をとる漁師にするためでした。もともとが魚をとる漁師であったとはいえ、人間を取る漁師がどういう働きなのか、この四人にもピンとはこなかったかもしれません。
旧約聖書の預言の中に、神がイスラエルの人々を鈎針で釣り上げて裁きを実行されるという預言があります。
「主なる神は、厳かに誓われる。 見よ、お前たちにこのような日が来る。 お前たちは肉鉤で引き上げられ 最後の者も釣鉤で引き上げられる。お前たちは次々に、城壁の破れから引き出され ヘルモンの方へ投げ出される」
これはアモス書の4章に出てくる言葉ですが、ここで人間を釣り上げるのは決してよい意味ではありません。釣り上げられた人間に待っているのは、裁きであり、滅びでした。
しかし、イエスが彼らに与えた仕事、「人間をとる漁師」とは、人間を捕まえて殺すことが目的なのではありません。むしろ、人間らしさを疎外している人間の罪深い混沌の海から、人間を救い出し、キリストのもとへと連れ帰す働きです。そのような貴い働きにキリストは四人の弟子たちを召し出してくださいました。
果たしてこの四人がその働きを進める上で、ほんとうにふさわしい才能があったのかどうか、そのことを考え始めたとしたら、誰一人としてこの呼び掛けに応じることはできなかったでしょう。後にユダヤ教の宗教議会で取調べを受けることになるペトロとヨハネに対して、ユダヤ教の指導者たちはこの二人を見て「二人が無学で普通の人であることを知って驚いた」と聖書には記されています(使徒言行録4:13)。世間的にもそれくらいにしか見られていなかった者たちでした。実際数多くの失敗を繰り返した人々です。
しかし、肝心なことは、誰が召してくださっているのかということなのです。このマルコ福音書の記事では、これらの人々に目を止められたイエスの姿を描き、これらの人々に声をかけられるイエスの姿を描いています。
わたしたちに目を注ぎ、呼び止めてくださるイエス・キリストこそ、きょうのストーリーの中心にいらっしゃるお方です。このお方にすべてをゆだねて従っていくことこそ、大切なことです。
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