聖書を開こう 2017年9月21日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  警告(2コリント13:1-4)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 たいていの宗教は、自分のいいことしか宣伝しません。おそらく、「悪いところがないので、いいことしか宣伝できない」ということなのでしょう。しかし聖書は、神の正しさを主張して譲ることはありませんが、聖書の神を信じる者たちに誤りがないとは言いません。むしろ、「罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることである」(1ヨハネ1:10)とさえ言われています。

 新約聖書の中に残されているコリントの信徒へ宛てた二通の手紙は、当時のコリントの教会のどろどろとした内情が赤裸々に描かれていて、読む人に失望感を与えるかもしれません。しかし、この手紙が聖書の中に含まれているおかげで、キリスト教会の偽らない現実の姿とそこに働く神の恵みの力を知ることができます。罪人を集めて神の民へと変えてくださるところに、神の偉大さがあります。そして、この神の救いの御業に、罪人である人間同士がどのようにかかわってキリストの教会を建て上げていくのか、忍耐と知恵が求められています。

 きょう、取り上げる個所には、パウロの高圧的とも感じられる態度が示されています。ここだけを切り取って読めば、そのような誤解を抱いてしまうかもしれません。しかし、パウロが心から願っていることは、コリントの教会を威嚇して自分に従わせようとすることでは決してありません。これまでにパウロが努めてきたことと併せて、きょうの個所を読んでいきたいと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 コリントの信徒への手紙二 13章1節〜4節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 わたしがあなたがたのところに行くのは、これで三度目です。すべてのことは、二人ないし三人の証人の口によって確定されるべきです。以前罪を犯した人と、他のすべての人々に、そちらでの二度目の滞在中に前もって言っておいたように、離れている今もあらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったら、容赦しません。なぜなら、あなたがたはキリストがわたしによって語っておられる証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対しては弱い方でなく、あなたがたの間で強い方です。キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」

 前回の学びの中で、教会のトラブルを真に解決するためには「造り上げる」というキーワードの大切さを指摘しました。クリスチャンの歩みは、キリストへと向かって全人格が建て上げられていくことです。決して破壊的な方向へと力を注いではなりません。そして、その「造り上げる」歩みを促すためには、絶えず愛に根差した励ましが必要です。愛のないところに、信仰者の成長も教会の成長もありません。これこそパウロがコリントの教会の中で起こっている問題に対処するに当たって、常に持ち続けていたパウロの姿勢です。

 ところが、きょうの個所には「今度そちらに行ったら、容赦しません」というパウロの厳しい言葉が記されています。容赦しないという決意は、相当厳しい姿勢です。果たしてパウロは、愛のない大胆な手段に訴え出ようとしているのでしょうか。

 パウロはきょうの個所でも述べているように、三度目のコリント訪問を考えています。一度目の訪問は言うまでもなく、伝道旅行の際に初めてコリントを訪れた時の話です。これは使徒言行録にも記されている事柄です。二度目の訪問のことは、使徒言行録には記されていませんが、どうやら、問題解決のために一度コリントを訪問したようです。

 この手紙の2章1節以下から、そのことを推測することができます。この二回目の訪問の時には、問題の解決どころかコリントの教会の人たちもパウロも、ともに悲しむ結果となったようです。この訪問から帰ったパウロは、コリントに宛てて「涙ながらに手紙を書いた」とあります(2コリント2:4)。その涙ながらにしたためた手紙を託して、テトスをコリントに派遣しました。

 その手紙に書かれた具体的な内容については、手紙自体が現存しないので、今となってはわかりません。少なくとも一時的にせよ、この涙の手紙がコリントの教会員たちを悲しませたことは事実のようです(2コリント7:7-8)。しかし、その手紙を書いた時点でも、コリントに対する愛は変わるものではありませんでした。

 「わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした。」(2コリント2:4)と記されているとおりです。

 コリントから戻ってきたテトスの報告によれば、コリントで起きた事柄は、明らかによい方向へと向かっていました(2コリ7章)。ただ、それでも、パウロに対して敵対心を抱いている者たちが、まったくいなくなったというわけではないようです。

 その人々の問題点は、パウロが真の使徒であることを依然と疑い、その証拠を求めてはばからないという点です。そのような人々に対する断固とした態度が、先ほどの「容赦しない」という強い言葉となって表明されました。

 このことは、一見、パウロは自分の面子や沽券から、このような態度に出たと思われるかもしれません。しかし、すでに学んできたように、パウロ自身は侮辱されることに怒りを覚えているのではありません。パウロはこう記しています。

 「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(2コリント12:10)

 これがパウロの思いです。

 それにもかかわらず、こうまで強い態度に出ているのには理由があります。それは、神がお遣わしになった者を受け入れないことが、神を否定することにつながってくるからです。パウロは自分の名誉のことではなく、神が侮辱されることを心から悲しんでいるからです。

 さらに、この手紙を読み進めると、再びパウロは「造り上げること」について語っています。

 「遠くにいてこのようなことを書き送るのは、わたしがそちらに行ったとき、壊すためではなく造り上げるために主がお与えくださった権威によって、厳しい態度をとらなくても済むようにするためです。」(2コリント13:10)

 パウロの願いは、コリントの教会に集う者たちが、キリストに向かって造り上げられていくことです。自分に与えられた権威はそのためのものであることを誰よりもわきまえているパウロです。

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