聖書を開こう 2017年9月14日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  あなたがたを建て上げるために(2コリント12:19-21)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 わたしの好きな聖書の言葉に、ギリシア語の単語で『オイコドメオー』という言葉があります。本来は「家を建てる」という意味ですが、比ゆ的な意味で、「人を建て上げる」という意味で使われます。

 例えば、コリントの信徒への手紙一の8章1節で、パウロはこう書いています。

 「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。」

 ここで、「造り上げる」という言葉がそれですが、口語訳聖書や新改訳聖書では、それぞれ「人の徳を高める」とか「人の徳を建てる」と翻訳しています。

 キリスト教会では物事を議論したり行動をとったりするときに、それが「建徳的」であることを第一に考えます。「建徳的」というのは「徳を建てる」と書きますが、わたしは「建徳的」という言葉がてっきりもとからある日本語だと思っていました。ところが、原稿を書きながら改めて国語辞典で調べてみると、広辞苑にも出ていない単語であることに、いまさらながら驚きました。おそらくキリスト教会の中でしか使わない言葉なのだと思います。一般的には「破壊的」に対して「建設的」と言う方が通じるかもしれません。建設的な意見、建設的な発言のような使われ方です。

 ただ、聖書が「オイコドメオー」という言葉を使うときには、もう少し人格全体の形成に寄与するようなニュアンスで使われています。特にキリスト者としてふさわしい人格を持つように人を育て上げる時にこの言葉を使います。

 きょう、これから取り上げようとしている箇所にも、この「オイコドメオー」から派生した言葉が出てきます。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 コリントの信徒への手紙二 12章19節〜21節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 あなたがたは、わたしたちがあなたがたに対し自己弁護をしているのだと、これまでずっと思ってきたのです。わたしたちは神の御前で、キリストに結ばれて語っています。愛する人たち、すべてはあなたがたを造り上げるためなのです。わたしは心配しています。そちらに行ってみると、あなたがたがわたしの期待していたような人たちではなく、わたしの方もあなたがたの期待どおりの者ではない、ということにならないだろうか。争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動などがあるのではないだろうか。再びそちらに行くとき、わたしの神があなたがたの前でわたしに面目を失わせるようなことはなさらないだろうか。以前に罪を犯した多くの人々が、自分たちの行った不潔な行い、みだらな行い、ふしだらな行いを悔い改めずにいるのを、わたしは嘆き悲しむことになるのではないだろうか。

 今学んでいるコリントの信徒への第二の手紙は、気の重くなるような問題に対処しようと、パウロがコリントの教会の信徒たちに宛てた手紙です。問題を抱えていたコリントの教会が、素直にその問題に気がつき、非を認めて悔い改めさえすれば、それほど大きな問題にはならなかったでしょう。しかし、実際にはそうではありませんでした。

 前々回お読みした個所にも出てきましたが、パウロは三度目のコリント訪問を試みようとしています。いうまでもなく、最初の訪問はコリントの地に福音を宣べ伝えるためでした。二度目の訪問というのが、パウロにとってはとても悲しい結果であったようです。それ以来、パウロは神の御心にかなうように問題が解決することを心から願ってきました。

 三度目の訪問に際して、少なからず良い兆しは見えていました。何よりもコリントから戻ってきたテトスが、コリント教会の人々の悔い改めた様子を報告してくれていたからです(2コリント7:5以下)。けれども、全く不安が払しょくされたのか、というとそうではないようです。少なくとも、きょう取り上げた個所を読む限り、パウロはまだ一抹の不安を抱いているようにも感じられます。

 「わたしは心配しています。そちらに行ってみると、あなたがたがわたしの期待していたような人たちではなく、わたしの方もあなたがたの期待どおりの者ではない、ということにならないだろうか。争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動などがあるのではないだろうか。」

 そうであればなおさらのこと、訪問の目的や今まで書いてきたことが何を目指しているのか、誤解を生まないように慎重でなければなりません。

 そこでまず、パウロは自分が今までこの手紙の中で書いてきたことに、どんな真意があるのかをもう一度明らかにしています。そして、それは今度もう一度コリントを訪問しようとしている、訪問の真の意図でもあります。

 「あなたがたは、わたしたちがあなたがたに対し自己弁護をしているのだと、これまでずっと思ってきたのです。わたしたちは神の御前で、キリストに結ばれて語っています。愛する人たち、すべてはあなたがたを造り上げるためなのです。」

 パウロはこの手紙の中で、「自己推薦」という言葉や「自分を誇る」という言葉を使ってきましたし、また、そう誤解されてきたことに対して、反論もしてきました。しかし、パウロはただの自己弁明のためにこの手紙を書いてきたわけではありません。パウロの関心は自分の名誉にあるのではなく、神の教会の健全な成長にありました。確かに自分の使徒職について疑念を持たれたとき、パウロはそのような疑念をはねのけるために断固とした態度をとりました。しかし、それは自分の名誉のためというよりは、神の名誉がけがされることへの反発と見た方がよいでしょう。神がお遣わしになった者を、そうではないとみなすことほど冒涜的で、神をないがしろにすることはありません。

 では、パウロが書いてきたことが自己弁明ではないとすれば、それは何のためだったのでしょう。

 パウロはこう語ります。

 「愛する人たち、すべてはあなたがたを造り上げるためなのです」

 この一言こそが、パウロに手紙を書くようにと燃え立たせている動機です。パウロにとっては、今まで書いてきたすべてのことは自己弁明のためではありませんでした。この手紙を書くにあたって、パウロが常に心にとめてきたことは、この手紙の中に記されている一言一言が、キリストを意識し、キリストにあって記されているということです。自己弁明に走るとき、キリストは意識の中から消え去ってしまうでしょう。パウロはこの手紙の一言一句がそうならないように、キリストにあって、キリストに結ばれて記しました。それは、ほかでもなく、執筆の究極の目的がコリントの信徒たちの霊的な成長にあったからです。

 ここでパウロは、コリントの教会の人々を「愛する人たち」と呼びかけています。どんなに問題を抱えているとしても、パウロにとっては主にある愛する人たちです。この人たちが終わりの日に神の御前に立ちうる信仰者として建て上げられていくこと、そのことこそパウロの願いです。

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