メッセージ: コリントの教会の成長を願って(2コリント12:11-18)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
教会の中での人間関係は、この世の社会では味わうことのできない麗しいものがあります。同じ主を信じ、同じ神を見上げて歩むところに、他では感じることのできない一体感があります。
しかし、その教会の中で、何か人間関係のトラブルが起るとき、事態はとても深刻になることがあります。特に牧師と信徒の間に溝ができたとき、その対応はとても慎重でなければなりません。もちろん、牧師の側にその原因があるのであれば、身を低めて対応に当たるのは当然のことです。
もっとも、身を低めることができる牧師であれば、トラブルも起こりにくいでしょう。ただ、それでも些細な誤解や、外からの誹謗中傷によって、危機に立たされるということが、起こらないとは限りません。今、まさにパウロが直面している問題は、降りかかってきた火の粉とでもいえるトラブルです。しかし、それでも真摯にこの問題に向き合うパウロの姿勢から、今回も学びを続けていきたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 コリントの信徒への手紙二 12章11節〜18節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
わたしは愚か者になってしまいました。あなたがたが無理にそうさせたのです。わたしが、あなたがたから推薦してもらうべきだったのです。わたしは、たとえ取るに足りない者だとしても、あの大使徒たちに比べて少しも引けは取らなかったからです。わたしは使徒であることを、しるしや、不思議な業や、奇跡によって、忍耐強くあなたがたの間で実証しています。あなたがたが他の諸教会よりも劣っている点は何でしょう。わたしが負担をかけなかったことだけではないですか。この不当な点をどうか許してほしい。
わたしはそちらに三度目の訪問をしようと準備しているのですが、あなたがたに負担はかけません。わたしが求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。子は親のために財産を蓄える必要はなく、親が子のために蓄えなければならないのです。わたしはあなたがたの魂のために大いに喜んで自分の持ち物を使い、自分自身を使い果たしもしよう。あなたがたを愛すれば愛するほど、わたしの方はますます愛されなくなるのでしょうか。わたしが負担をかけなかったとしても、悪賢くて、あなたがたからだまし取ったということになっています。そちらに派遣した人々の中のだれによって、あなたがたをだましたでしょうか。テトスにそちらに行くように願い、あの兄弟を同伴させましたが、そのテトスがあなたがたをだましたでしょうか。わたしたちは同じ霊に導かれ、同じ模範に倣って歩んだのではなかったのですか。
今日お読みした個所は、区切りとしては、14節から新しい話題と考えた方がよいかもしれません。そこから三度目のコリント訪問のことが話題となっているからです。
それに対して、11章1節から始まって12章13節までは、偽使徒からの誹謗に対して、自分を弁明するパウロの言葉が記されていました。そこでは偽使徒に対抗してあえて誇るパウロでした。もちろん、パウロは好き好んで自分を誇っていたわけではありません。偽使徒に惑わされているコリントの教会の人々の目を覚まさせるためにあえてそうしました。
そういう一連の流れからすると、今日お読みした個所の前半と後半では話題が変わっているとも言えます。
しかし、12章の11節から13節は、先行する話題の結びであると同時に、次の話題への橋渡しともなっています。その橋渡しとなっているキーワードは、コリントの教会への金銭的な負担の問題です。
前にも学んだ通り、パウロはコリントの地では、自分で天幕づくりをして働いたり、他の教会からの支援で、伝道活動を続けていました。もちろん、パウロ自身、働く人が報酬を得るのは当然であると考えていましたから、コリントの教会から報酬を得たとしても、分を超えたこととは思わなかったでしょう。しかし、パウロがコリントの教会から報酬を得なかったことは、偽使徒たちの中傷を考えると、懸命な判断でした。
パウロは問題を事前に回避するためには、どんな自己犠牲もいとわない人でした。それだけ慎重に行動し、コリント教会に負担をかけなかったにもかかわらず、パウロのことを、「悪賢くて、だまし取った」と言いふらす者がいるのですから、当然の権利を当然のこととして主張していたとしたら、どれほどひどい中傷を浴びせられていたことでしょう。
三度目のコリント訪問に際しても、パウロはこの方針を貫き通そうとします。他の土地の教会とは違って、コリントでは無報酬で福音の宣教に携わるのですから、考えようによっては、コリントの教会の人たちに、恥をかかせるということにもなるでしょう。パウロはその点を思慮に満ちた言葉でこう説明します。
「わたしが求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。子は親のために財産を蓄える必要はなく、親が子のために蓄えなければならないのです。」
パウロが心の底から願っていることは、コリントの教会の人々が、キリストに属するものとして歩むことです。「わたしが求めているのは、…あなたがた自身だからです」とは、自分の子分を増やしたいという意味ではありません。そんなことはパウロの関心ではありません。パウロはキリストの使者として、一人でも多くの人をキリストと結び合わせ、神との和解を得させようと願っています。その人の持ち物ではなく、その人自身がパウロにとって一番の関心です。親が子どものために何でもするように、パウロは親が子を思うのと同じ思いで、コリント教会を心にかけています。
パウロがコリントではあえて無報酬で福音を宣べ伝えているのは、ただ単に誤解やつまずきを恐れて、ということだけではありません。確かに、パウロたちへの誹謗中傷は無視できないほどのものでした。しかし、パウロがコリントで無報酬の姿勢を貫こうとする背景には、彼らに対する積極的な愛がありました。
もし、パウロが自分のために福音を宣べ伝えているのだとすれば、コリント教会を見捨てて、もっと自分を歓迎してくれるところで伝道をすることもできたでしょう。しかし、そうはしませんでした。しかも、自分の負担をもいとわないで、三度目の訪問を願うのですから、それはパウロの愛の証以外の何物でもありません。
人間関係のどんなトラブルでもそうですが、もし、愛がなければ、本当の解決は望めません。まして教会の中での問題には、隣人への愛と、神へ向かう思いを欠かすことはできません。
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