ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
よく耳にする言葉に、「キリスト教は弱い人が信じるものだ」というのがあります。それは半分当たっていて、半分違っていると思います。誤りの一つは、キリスト教とは弱い人が信じるものではなく、人間とは弱くて儚いものだということを知っていて、しかも、自分自身がその人間の一人であることを受け入れている人が信じることのできるものだ、ということです。
言い換えれば、人間の弱さや不完全さを知らない人にとって、とりわけ、自分は弱い人間ではないと思う人にとっては、キリスト教を理解するのはとても難しいということです。
もう一つの誤りは、キリスト教の世界では、「弱い者」と「強い者」はしばしば逆転的だということです。たとえば、キリスト教を徹底的に弾圧した徳川幕府の力は強大でした。しかし、その力をもってしても、キリスト教を根絶することはできませんでした。一方、徳川幕府はといえば、260年あまりで消えてしまいました。神の偉大さを信じる者にとっては、人間の強さにも限界があることは自明の事柄です。そうであれば、弱いということについて、それをマイナスの要因とは思わなくなるということです。むしろ、神の力にこそ価値を見出す者とされていきます。
きょうの個所にも、パウロの弱さについての話が出てきます。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 コリントの信徒への手紙二 12章1節〜10節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
前回、パウロの人間的な誇りについての話を見てきました。もちろん、パウロにとって、そのような人間的な誇りを自慢することは本意ではありません。敵対者である偽使徒によって惑わされているコリント教会の人たちの目を覚まさせるために、あえて自分の誇りを並べたにすぎません。わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は14年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは3度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。