聖書を開こう 2017年6月29日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  募金に携わる兄弟派遣の意図(2コリント9:1-5)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 キリスト教会には内外から様々な献金の訴えが届きます。たとえば、聖書翻訳事業に携わる団体からの献金の訴えや、社会福祉事業に携わるキリスト教主義団体からの訴えなど、どの一つをとっても、その働きを担う人たちの熱心をうかがい知るにつけ、何とかしてその必要が満たされるようにと協力したい気持ちでいっぱいになります。

 しかし、半面、安請け合いをして、相手を失望させてしまうことがないように、どこにどれだけの力を注ぐことができるのか、きちんとした計画を立てることが大切です。献金や募金の性質によっても、計画の立て方は違いますが、一旦応じたものを無計画なために途中で変えることがないように、細心の注意を払うことは言うまでもないことです。

 今取り上げている手紙の中にも、慈善のための募金のことがかなりのスペースを割いて扱われています。そのことはパウロにとってこの事業がどれほど大きなものであったかを物語っています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 コリントの信徒への手紙二 9章1節〜5節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 聖なる者たちへの奉仕について、これ以上書く必要はありません。わたしはあなたがたの熱意を知っているので、アカイア州では去年から準備ができていると言って、マケドニア州の人々にあなたがたのことを誇りました。あなたがたの熱意は多くの人々を奮い立たせたのです。わたしが兄弟たちを派遣するのは、あなたがたのことでわたしたちが抱いている誇りが、この点で無意味なものにならないためです。また、わたしが言ったとおり用意していてもらいたいためです。そうでないと、マケドニア州の人々がわたしと共に行って、まだ用意のできていないのを見たら、あなたがたはもちろん、わたしたちも、このように確信しているだけに、恥をかくことになりかねないからです。そこで、この兄弟たちに頼んで一足先にそちらに行って、以前あなたがたが約束した贈り物の用意をしてもらうことが必要だと思いました。渋りながらではなく、惜しまず差し出したものとして用意してもらうためです。

 前回取り上げた個所では、募金活動のためにパウロのもとからコリントの教会に三名の人物を派遣することが記されていました。その一人はテトスで、コリント教会での問題処理を終えて、パウロのもとに戻ってきたばかりの人物でした。コリントの教会にとっては、よく知られた人でしたから、この人が遣わされていくのは特に説明の必要もないことでしょう。

 あとの二人に関しては、名前こそ挙げられてはおりませんが、諸教会の信任を得たという意味で、十分に信頼に値する人物だったことは間違いありませんでした。

 さて、そのような人々をコリント教会に派遣した目的はいったい何だったのでしょうか。この段落の冒頭でパウロは、「聖なる者たちへの奉仕について、これ以上書く必要はありません」と記していますので、今更、この度の慈善の業の意義について訴えるために三人を遣わしたのではありません。あとはそれを実行し、実りあるものとすることだけがコリント教会のなすべきことでした。

 少し話がそれますが、パウロは今まで「慈善の業」という言い方をしてきましたが(2コリント8:4, 6, 7, 19)、ここでは「奉仕の業」と言い換えています。指している内容は、エルサレム教会支援のための募金活動のことですが、その活動をどうとらえるか、その捉え方によって二通りの言い方をしています。

 今までのところで「慈善の業」と訳されてきた言葉は、「恵み」という意味の言葉でした。「恵みの業」と訳してもよいかもしれません。その意味は、「恵みを施す」ということですが、もちろん、そのように恵みを誰かに施すことができるのは、神からの恵みが自分に注がれているという前提があります。パウロがいう「慈善の業」とは、神の恵みがいつも先行しているという意味での「慈善の業」です。そういう意味で、慈善の業は神の恵みの証です。

 きょうの個所では、同じ働きを「奉仕」と言い換えています。すでに8章4節で「聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕」という言い方が出てきていますから、言葉の言い換え自体は特に新しいことではありません。ただ、エルサレムの教会を支えるための募金には、この二面があるということを覚えることはとても大切なことです。これは教会の中で集められる募金には共通している事柄です。

 つまり、一方では、募金に応じることは、受けた神の恵みの証であり、他方では、その募金を必要としている人たちに仕える業であるということです。仕える思いのないところに、真の募金活動は成り立ちません。

 さて、話を元に戻しますが、コリントの教会で始められたこの募金活動は、あとはそれが確実に実行されることだけが問題でした。

 というのも、そのことをことさら強調するのには事情がありました。というのは、この募金活動を誰よりも率先して始めたのは、コリントの教会の信徒たちだったからです。言い出しっぺのコリント教会が、口先だけで何も出来ていないとなれば、それこそ信頼を失ってしまいます。

 いえ、コリント教会が募金活動に名乗りを上げただけで、他の教会が一つも追随していないのであれば、募金活動が停滞していてもまだ面目は保たれるかもしれません。しかし、現実はそうではありませんでした。コリント教会のこの熱心はマケドニア州の人々にすでに知れ渡っていました。マケドニア州の教会にそのことを語って聞かせたのはパウロ本人ですが、マケドニア州の教会の人々を奮い立たせる結果となりました。

 この手紙の8章1節以下でパウロが書いているとおりです。

 「兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。」

 そうした事情を考えると、コリント教会での募金が具体的な実りを結ばないわけにはいきません。

 パウロはあえて、コリントの教会の人々を奮起させるためにこう記しています。

 「マケドニア州の人々がわたしと共に行って、まだ用意のできていないのを見たら、あなたがたはもちろん、わたしたちも、このように確信しているだけに、恥をかくことになりかねないからです。」

 しかし、この募金はパウロ自身が記しているように、エルサレム教会の信徒たちへの慈善の業であり、奉仕の働きです。そういう意味で、決してプレッシャーからその働きが続けられてはなりません。パウロはそのような誤解がないように、こう締めくくります。

 「渋りながらではなく、惜しまず差し出したものとして用意してもらうためです。」

 喜んで捧げるところに、この奉仕の業に祝福が伴うのです。

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