ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
教会の中で起こったトラブルを、キリスト教信仰に立って解決するということは、そう簡単ではありません。その理由の一つは、当事者が同じ信仰の立場に立っていなければならないからです。このことは当たり前のことのように思えます。しかし、同じ聖書を読んでいるからといって、当事者の聖書理解が一致しているとは限りません。そういう意味では、しっかりとした信仰基準を持っている教会では、解決に向かってのスタートラインとゴールがはっきりしています。
しかし、信仰基準がしっかりしていても、人間的な罪の弱さがなくなるわけではありません。そもそも、信仰基準がしっかりしていると、人間的な弱さもなくなるのであれば、教会内のトラブルそのものが起らないでしょう。しかし、現実はそうではありません。キリストによって罪の赦しを得たとはいえ、いきなり罪を犯さないほど清くなるわけではないからです。
教会内のトラブル解決の難しさは、まさにこの点にあります。当事者がキリストの前に謙遜になって解決を求め、神の御心を尋ねるのでなければ、決して真の解決には至らないからです。そうであればこそ、真の解決を得た時にはこの上ない喜びが伴います。パウロとコリントの教会はそういう喜びを経験しました。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 コリントの信徒への手紙二 7章5節〜16節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
パウロはこの手紙の2章12節以下で、トロアスの地でテトスに会えなかったために、その地での福音宣教を断念してまで、マケドニア州に向かったことを記しました。その時のパウロの心情は、きょうの個所にも記されているとおりでした。マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです。しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました。テトスが来てくれたことによってだけではなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、そうしてくださったのです。つまり、あなたがたがわたしを慕い、わたしのために嘆き悲しみ、わたしに対して熱心であることを彼が伝えてくれたので、わたしはいっそう喜んだのです。あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、わたしは後悔しません。確かに、あの手紙が一時にもせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔したとしても、今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは何の害も受けずに済みました。神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。神の御心に適ったこの悲しみが、あなたがたにどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめをもたらしたことでしょう。例の事件に関しては、あなたがたは自分がすべての点で潔白であることを証明しました。ですから、あなたがたに手紙を送ったのは、不義を行った者のためでも、その被害者のためでもなく、わたしたちに対するあなたがたの熱心を、神の御前であなたがたに明らかにするためでした。こういうわけでわたしたちは慰められたのです。この慰めに加えて、テトスの喜ぶさまを見て、わたしたちはいっそう喜びました。彼の心があなたがた一同のお陰で元気づけられたからです。わたしはあなたがたのことをテトスに少し誇りましたが、そのことで恥をかかずに済みました。それどころか、わたしたちはあなたがたにすべて真実を語ったように、テトスの前で誇ったことも真実となったのです。テトスは、あなたがた一同が従順で、どんなに恐れおののいて歓迎してくれたかを思い起こして、ますますあなたがたに心を寄せています。わたしは、すべての点であなたがたを信頼できることを喜んでいます。