ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
救いは恵みである、と聖書が語っています。その場合の「恵み」には二重の意味があります。恵みとは、報酬や対価では決してない、ということです。何かに対する報酬として、あるいは、何かに対する対価として、救いが与えられるのではありません。
これは、ほとんどの人が抱いている救いのイメージとは異なっています。聖書の救いは、決して何か良いことをしたことに対する報いとして与えられるものではありません。むしろ、人は自分を救うほどのどんな善い行いもできないということが前提です。だから、恵みとしてしか与えようがありません。
そこから導き出される恵みのもう一つの側面は、無償であるという点です。救いは恵みであると聖書がいうとき、それは、救いが全く無償で提供されるということを含んでいます。もちろん、聖書の救いが価値がないので、ただでばらまかれるということではありません。救いに関わる全ての必要をイエス・キリストが完全に満たしてくださったということが前提にあります。すでに必要なすべてが支払われているからこそ無償で提供できるのです。
ただでは申し訳ないので、一部でもお支払いしたい、と思うのが、人間ですが、救いに関して言えば、一部さえも支払うということができないのが現実です。それに、すでに完全に支払われているのですから、何かを差し出したとしても、意味のないことです。
できることをあえて言うとすれば、恵みによって与えられた救いを、恵みとして受けること、このこと以外にわたしたちにできることはありません。そして、その上で何かしたいというのであれば、ただ、この恵みにふさわしく生きることだけが、求められていることです。
パウロは、この恵みによる救いを伝える使徒として、何よりも、この救いを恵みのままに受け入れてほしいと願っています。そして、この恵みによる救いを伝える使徒として、恵みの福音にふさわしくふるまっています。
今日取り上げようとしている箇所には、パウロのそうした願いと行動が記されています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 コリントの信徒への手紙二 6章1節〜10節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
前回取り上げた個所で、パウロは自分のことを、神によって立てられた「和解のために奉仕する使者」であると述べました。使徒とはそのような任務を帯びて遣わされてくる者です。パウロはその務めを忠実に果たしてきましたし、この手紙を書いている時点でも、その使命感には揺らぎがありません。わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。