聖書を開こう 2017年3月30日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  パウロと福音宣教の務め(2コリント4:1-6)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 どんな仕事でもそうだと思いますが、その職業に対するプロ意識というものはとても大切です。しかし、どんな職業も、自分がそこに神から才能をいただいて遣わされているという謙遜な思いがなければ、高慢に陥ってしまうか、あるいは、必要以上に卑屈になってしまう危険があります。特に福音の宣教に携わる働き人には、この二つのこと、つまり、プロフェッショナルな意識と、神から才能を授かって遣わされているという意識が必要です。

 二つのこと、と言いましたが、キリスト教的な観点からいえば、神からその働きに召し出されているという意識こそが、プロ意識の中心ですから、結局はプロ意識も職業への召命感も一つつのことがらということができます。

 さて、パウロは今まで、新しい契約に仕える奉仕者としての自分について語ってきました。今日取り上げようとしている箇所は、その結びとでも呼ぶべき部分です。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 コリントの信徒への手紙二 4章1節〜6節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。

 パウロは新しい契約に仕える者として、その務めに携わる自分について語ってきましたが、その結論として、真っ先に述べていることは、「落胆しません」というこの務めに対する姿勢です。

 「こういうわけで、わたしたちは、…落胆しません。」

 「こういうわけで」という書き出しは、今まで述べてきたとを受けての言葉ですが、パウロが直前で述べてきたことは、新しい契約が持っている栄光についてでした。それは、消えゆくような栄光ではないということ、さらには、その契約にあずかる者たちが、栄光から栄光へと変えられるような力を持った栄光です。パウロが新しい契約を宣べ伝える働きに落胆しないのは、新しい契約が持っている栄光に対する確信があったからです。

 しかし、パウロが「落胆しない」という思いに至るには、ここまでのいきさつがあります。コリント教会での問題に頭を悩ましてきたパウロにとって、自分の働きが無駄ではなかったか、と考えさせられる苦い経験がありました。その経験こそががこの確信の背後にあります。そもそも、パウロの福音宣教の働きが順風満帆であったとしたら、「落胆しません」という言い方はしなかったでしょう。落胆してしまいそうな状況の中で考えぬいてこそ得た結論です。

 パウロにとって、この働きが落胆に終わることがないという確信は、新しい契約自体が持っている栄光から導き出されたものでした。さらにパウロには、もう一つこの確信を支えるものがありました。それは、パウロがこの働きに召されたいきさつからくるものです。

 パウロは最初からイエス・キリストの福音に賛同した人ではありませんでした。むしろ、この教えを憎み、迫害する立場の人でした。しかし、そのパウロを回心させ、この務めに召し出したのは、神の大きな憐みにほかなりません。その自覚がパウロにはありましたので、この憐みに富んだ神が、福音宣教の働きを徒労に終わらせるはずはないと、パウロは誰よりも強く意識していました。

 どんな仕事でもそうだと思いますが、務めを成し遂げるにはたくさんの労力を必要とします。福音宣教の務めも例外ではありません。実際、パウロが携わった福音宣教の業は、苦労の連続でした。しかし、それにもかかかわらず、この働きを成し遂げることができるのは、この働きが神から与えられているという確信があるからです。パウロの場合には、そこに神の「憐み」をも感じることができたのでしたから、この務めが徒労に終わることがないという確信は、さらに強いものでした。

 パウロはさらに筆を進めて、「落胆しない」という消極的な言い方ではなくて、もっと積極的にこの福音宣教に携わる者の姿勢を書き表します。

 それは、「神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねる」ということです。

 福音宣教が思ったように進まないとき、落胆した思いになってしまうことは、しばしばあることです。実際、パウロもコリント教会の問題を抱えて、落胆的な思いが何度となく心をよぎったことでしょう。その時、しばしば人がしてしまうことは、結果を出すために、人間的な手段で人に取り入ろうとすることです。パウロはそのような状況に追い込まれるときにも、「卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすること」に心を用いる人でした。

 そして、そうすることによって自分自身を神の御前ですべての人の良心にゆだねようと決心しました。これはとても勇気を必要とすることです。しかし、先にも述べた通り、パウロには、福音宣教の務めに対する確信がありましたので、少しも恐れることはありませんでした。それは、自分をこの働きに召してくださった「神の御前で」パウロが決めたことでした。それは神への信頼から出た決心です。

 パウロは、神の言葉を神の言葉のままに、少しの譲歩も妥協もなく伝えることに、この務めの大切さを見出していました。

 パウロは福音宣教に携わる者の姿勢をこう締めくくっています。

 「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。

 福音を悟らせ、キリストを受け入れさせてくださるのは、神ご自身の働きである、ということを受け入れる謙虚な姿勢こそが、この務めを最後まで果たす大きな力となるのです。

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