聖書を開こう 2017年2月23日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 愛と赦し(2コリント2:5-11)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 問題のない社会というのは、残念ながら存在しません。そう言い切ることができるのは、程度の差こそあれ、人間が皆罪びとだからです。少なくとも聖書は、人間とはそのような罪ある存在であるとみています。そのような罪ある人間が形成する社会に問題が起こらないはずはありません。

 このことは、教会も例外ではありません。確かに、イエス・キリストを信じる者たちには、そのすべての罪が赦されています。しかし、罪赦されたということと、現実に罪を犯さなくなるということとは別の問題です。罪を赦されたと同時に、即座に罪の思いからも解放されたというわけではないからです。聖書は、罪から完全に清められる途上にあるクリスチャンの姿を、様々な仕方で表現しています。ただこのことは決してゴールのない旅ではありません。完全に罪から清められる時が必ず来ることを聖書は約束しています。

 ただ、地上にある教会には現実に問題も起るのですから、それに対処する最善の道を備えておく必要があります。きょう取り上げようとしている箇所には、コリントの教会で起こった問題に対して、パウロがどのような態度で事柄に当たっているのか、示唆に富んだ実例が記されています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 コリントの信徒への手紙二 2章5節〜11節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 悲しみの原因となった人がいれば、その人はわたしを悲しませたのではなく、大げさな表現は控えますが、あなたがたすべてをある程度悲しませたのです。その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。わたしが前に手紙を書いたのも、あなたがたが万事について従順であるかどうかを試すためでした。あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです。わたしたちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです。サタンのやり口は心得ているからです。

 今、お読みした個所には、問題の核心が何一つ記されていません。具体的にどんな問題が起こったのか、それすらわからない書き方をしています。しかし、少なくともはっきりと言えることは、悲しみの原因となることを起こした人が、コリントの教会にいたということ、そして、その悲しみは、パウロにとって個人的な悲しい思いというのではなく、まさに教会にとって悲しみとなるような問題であったということ、さらに、その悲しみの原因となるような行いは、教会的な意味で処罰に値するような行いであったということです。

 ただ、今の時代の私たちからしてみれば、もっと事件の詳しい内容を知りたいと思うほど出来事の核心部分には触れられていません。

 パウロがあまり詳しく内容について触れていないのは、必ずしも、できるだけこの事件を隠ぺいしておきたいという思いからではありません。一つには、パウロとコリントの教会にとっては、事件のことは、非常によく知られていることがらですから、こういう書き方で十分であったということが挙げられるでしょう。しかし、もう一つ考えられるのは、パウロの配慮もあったということです。どんなに誰もが知っている内容であったとしても、その詳細を繰り返し公の場で言及されるとなれば、事件の当事者にとっては、やはりいたたまれない気持ちになってしまうものです。そういう配慮もあって、パウロはあまり詳しく記してはいないのでしょう。

 しかし、パウロがここで書いていることは、問題がある程度終息に向かっている段階でのことです。少なくとも、この手紙よりも前に書いたと思われる「涙の手紙」を送った時よりは、事態は好転していることがうかがわれます。

 「その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です」とパウロは書いていますが、このパウロの言葉の中に事態が好転している様子を読み取ることができます。というのは、コリントの教会の人たちが問題を認識し、処罰という方法で事柄の解決に臨んだということです。パウロはそれを「十分」と思っているところから推測すると、その処罰は功を奏して、問題の人物を悔い改めへと導くことができたと思われます。もちろん、ここでパウロが語っている処罰、というのは、教会的な意味での処罰であって、体罰や経済的な制裁を加えたという意味ではありません。

 さて、今、この段階にあってパウロがコリントの教会の人たちに助言していることは、悔い改めるその人を赦し、受け入れるということです。教会が誰かを罰する目的は、その人を排斥するためでもなければ、まして、二度と立ち上がれないように打ちのめすことでもありません。真の目的は、その人が悔い改めて正しい道に立ち返り、再び教会の交わりの中で信仰生活を送ることです。

 イエス・キリストもマタイによる福音書の中で、こう述べています。

 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。」(マタイ18:15)

 実に、兄弟を失うためではなく、得るためにこそ、誤りを正し、悔い改めを促し、時には強くそれを迫るのです。

 このキリストの言葉にはさらに続きがあります。ペトロが「では、何度まで赦すべきですか」と問うたのに対して、キリストは「7の70倍まで」とお答えになっています。

 容赦のない処罰は、けっして良い実を結びません。パウロは、その人に対する赦しと励ましと、そして、何よりも愛を示すようにと勧めています。愛がなければ、よい結果がうまれることはありません。まして、憎しみからは教会の分裂と、罪を犯したその人自身の破滅が生じるばかりです。

 愛のないところに、真の赦しは成立しません。真の赦しがなければ、それは自分の存在を裏切ることです。なぜなら、キリストを通して罪を赦されたわたしたちですから、悔い改める誰かを赦すのは当然のことだからです。

 最後に、パウロは示唆に富んだことを書いています。

 「わたしたちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです。サタンのやり口は心得ているからです。」

 悪を容赦しないという強い姿勢は、一見、神の義と一致しているように見えます。しかし、そこには同時にサタンをつけ込ませる機会も忍び込んでいるのです。そのような危険から教会を守るのは、真実な愛と赦しです。

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