メッセージ: 真実な神を信じる者として(2コリント1:15-22)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
クリスチャンであるがゆえに、信用されない、受け入れてもらえない、ということは、とても残念なことです。ただ、イエス・キリストご自身が、そのような事態が起こることをあらかじめ語ってくださっていますから(マタイ5:11-12、ヨハネ15:18-21)、予想外のことでは決してありません。キリストに従う者は、多かれ少なかれ、謂れのない非難にさらされ、苦しみに遭う覚悟が求められます。
しかし、もっと悲しいことは、同じ主を信じる者同士が、互いに信頼し合えないことです。主にある兄弟姉妹を信用できずに疑心暗鬼になっていることほど残念なことはありません。今学んでいる、コリントの信徒への手紙を書いているパウロは、ある意味、そのような悲しみの中でコリントの教会員たちに向き合っています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 コリントの信徒への手紙二 1章15節〜22節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
このような確信に支えられて、わたしは、あなたがたがもう一度恵みを受けるようにと、まずあなたがたのところへ行く計画を立てました。そして、そちらを経由してマケドニア州に赴き、マケドニア州から再びそちらに戻って、ユダヤへ送り出してもらおうと考えたのでした。このような計画を立てたのは、軽はずみだったでしょうか。それとも、わたしが計画するのは、人間的な考えによることで、わたしにとって「然り、然り」が同時に「否、否」となるのでしょうか。神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、「然り」であると同時に「否」であるというものではありません。わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に”霊”を与えてくださいました。
きょうの個所も一連の流れの一部を切り取って読みましたので、ここだけを聞いて理解するのは難しいと思います。続けて番組を聞いている方にとっては、繰り返しになりますが、今パウロが話題にしているのは、コリント訪問の計画についてです。ただそれだけのことであれば、ここまで回りくどく書く必要もなかったでしょう。
ここまで、くどくどとした書き方をしているのには、それなりの事情があったからです。前回もお話しした通り、パウロがコリント教会を訪問しようとしたのは、開拓伝道をした時以来、この時が初めてではありませんでした。コリントの第一の手紙の中にも、コリント訪問の予定が記されています。
少し整理して話をしますが、使徒言行録の18章で、パウロは第二回目の伝道旅行の時に、初めてコリントを訪れます。最初の滞在のとき、1年半腰を据えてコリントでの伝道に励みました。その後、コリントを去って、三回目の伝道旅行をに出かけますが、エフェソに滞在していたときに、コリント教会の問題を耳にしたパウロは最初の手紙を書いたものと思われます。その後、パウロがコリントの教会を訪問した明確な記録はありませんが、おそらく20章1節以下に、マケドニアを経由して、ギリシアに来て3ヶ月を過ごした記録があります。おそらく、そこで「ギリシア」と言っているのは、コリントの教会があるアカイア州のことを指しているのだろうと言われています。
つまり、使徒言行録の記録を読む限りでは、パウロがコリントを訪問したのは、開拓伝道の時と20章に記されている訪問の時の二回だけです。そして、第一コリント16章5節以下で述べられているコリント訪問の計画は、使徒言行録の20章で実現した、ということになります。
しかし、コリントの教会へ宛てた第二の手紙の13章1節を見ると、この手紙を書いている時点で、すでに二度コリントを訪問しています。しかも、状況から考えると、この手紙が言及している二度目の訪問は、使徒言行録には記されていない訪問のようです。考えられるのは、コリントの第一の手紙を書き送ってから、急きょコリントを訪問しなければならない状況があったということ。そして、その後、さらに三度目の訪問を計画していながらも、それがまだ実現していない(2コリント1:23)というのが、この手紙を書いているときの状況です。
これはコリントの教会の側からいうと、最初に送られてきた手紙の中で書かれている計画と、パウロの実際の行動が、まるで違うということです。最初の計画は急な変更で前倒しになった上に短期間の訪問で終わったかと思えば、その次の計画は、この手紙を書いている時点でいまだに実行されていないということです。
そこで手紙の本文に戻って、パウロが書いていることを読みたいと思います。ここで、パウロが特にこだわっている表現に「然り」と「否」の対比があります。「はい」と「いいえ」といってもよいでしょう。一方は肯定の言葉。もう一方は否定の言葉です。この両者は、相反する言葉ですから、決して、「然り」が同時に「否」になるはずはありません。もし、同じ事柄について一方に対しては「然り」と言っておきながら、他方に対しては「否」と答えれば、それこそ二枚舌を使い分けることになってしまいます。
コリントの教会のある人たちから見れば、まさにパウロは行き当たりばったりの二枚舌を使い分ける不誠実な人間だと不信を抱かれかねない状況です。
もちろん、パウロにはそのような悪意はありませんし、思慮の足りなさから、軽はずみに「然り」が結果として「否」となってしまったというのでもありません。しかし、どうすれば、それをコリントの教会の人たちに信じてもらえるのでしょうか。
パウロは考えました。第一にパウロが訴えたことは、神は真実なお方であるということです。もちろん、神がいくら真実であったとしても、人は真実ではないといわれてしまえばおしまいです。そこで、パウロは自分たちの宣べ伝えた御言葉の確かさの中に、自分たちの誠実さの証を求めました。神の「然り」がもっとも鮮明に表れているのは、神の子キリストにおいて成就した救いの御業です。パウロのメッセージはこの神の「然り」を「然り」として伝えたものでした。それは、コリントの信徒たちが受け取ったメッセージですから、もし、それがパウロによって曲げられたものであるとすれば、それはそのメッセージを聞いてクリスチャンとなった自分たちの存在そのものを否定することにもなります。
パウロとコリントの教会の信徒たちが、同じ信仰に立っていなければ、この議論は通用しないでしょう。しかし、同じ真実の神を信じ、その同じ神に仕えている者であるならば、そこに信頼の絆が生じてくるのは当然のことです。
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