IQとは違う知性をEQ(EI)と言うことがあります。EmotionalのEです。「感情的な」と訳されたりしますね。
子育てにもこのEQが大切であることがよく言われて来ました。
「自分の気持ちを自覚してコントロールする力」
「相手の気持ちを推察して思いやり対応する力」などを育てましょう、というのです。
でもEQは、IQのように数字で表せませんから、難しいのですね。
いじめの現実は、相手の感情に「無関心」です。
トップクラスの偏差値を誇っても、向き合う友だちに共感できず、生身の相手がどう感じるのかを想像できず、犯罪が起こることもあります。中高生の自殺が多いというニュースも悲しい現実です。
偏差値では測れない子ども達の「こころの知能指数」を育てることに心の目を向ける方々があります。
そうでなければこの社会は、「自分さえよければ…」という殺伐とした砂漠のような乾いた場所になってしまうからです。誰もが潤いあるオアシスに辿りつきたくて一生懸命努力しているのですから。
でもその努力が空回りすることってありませんか?
それではどこに心を育てる道があるのでしょう?
「魂の解剖図」ともいわれる聖書。
聖書の中に、「鏡を見るように人間の生々しい真実の姿が見える」と言われます。すると「本当の自分を知ることは聖書から始まるのだ」ということになります。
でも先日も聖書の贈呈のお手伝いをしたのですが、高校生達が受け取ってくれないことが多く悲しいですね。
誰もが生きる不安を心の中に抱えています。
勉強、勉強、また部活に明け暮れ、考えることを許さない競争の連続。人生の本質的な問いを先生も親も子もどこかへ投げ捨ててきたかのようです。
でも、心の奥底から叫ぶ声が聞えて来ませんか?
「私はいったい誰?この世界はそして自分は、どこから来て、やがてどこへ行くの?」
最初の一歩は、まず自分のありのままを見つめるところからですね。人間の心の現実も。
自分自身のことを振り返ってもそうですね。
競争社会で、自己嫌悪に陥って、心が疲れていた私が「聖書に出会う」ことがなかったなら…そのままどうなっていたことでしょう?
神様の家族と共に生きる喜びをいただかなかったら…
いのちがけで私を愛してくださるイエスさまがいらっしゃらなかったら…
今いったいどうなっていたことでしょう?
イエスは言われた。「わたしは道であり 真理であり 命である。」(ヨハネによる福音書14章6節)