おはようございます。私は清水教会の張在bと申します。
イエスは、「敵を愛しなさい」と言われました。敵は憎む対象であるので、多くの人々は、「敵を愛する」のは無理だと思うわけです。それで旧約聖書では「敵を憎め」という戒めもあります。けれども、イエスは、「敵を愛しなさい」と言われ、さらに「自分を迫害する者のために祈りなさい。」と言われました。この戒めには、愛は神様の御姿だという思想があります。神様の御姿に対して、詩編の詩人は、「主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい。永久に責めることはなく、とこしえに怒り続けられることはない。」と歌いました。「敵を愛しなさい」というのは、このような神様の愛に基づいているのです。
敵とは、隣人と対比して理解ができます。ユダ社会において隣人は同族を超えて、信仰的な同士です。異邦人のような彼らの信仰に合わない者たちは皆、彼らの隣人ではありません。隣人ではない人々を敵のように憎みます。社会で人々は、共に生きることができない人を寄せ付けないように生きます。時たまその人を憎んでいると思います。
人々は、敵は憎らしい、愛する気持ちにはなりません。それは人間の自然のあり方です。けれども、イエスは「敵を愛しなさい」とお勧めになります。これは、人を区別しないで、誰でも愛しなさいというのです。人は、敵のような憎む人などをすぐ区別をしたがる者ですが、イエスは人々に「誰でも愛しなさい」と言われたのは、その愛が神様の本質的な御姿だからです。
そういうわけでイエスは、「敵を愛しなさい」という戒めを、神様の御姿に基づいて言われ、神様に対して、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」と言っておられます。
「敵を愛しなさい」というのは、単なる「敵のような人を愛する」ということではありません。それを超えて、それは人間の特権なのです。イエスはその特権を「愛」という神様の御姿として言われているのです。厳密に言いますと、「敵を愛しなさい」ということを通して、人間の責任を尋ねるのではなくて、神様が完全であられるように、人も完全な者となるための道を教えられるのです。
人が人々を愛するのは、神様によって造られた人間の本分なのです。神様がご自分の慈しみと憐れみに基づいて、御子イエス・キリストを遣わしたのは、神様の愛です。人々はその御子の内に、神様の子となって、神様が完全であられるように、人々も完全な者にになりなさいということです。このように、人間の本分は人々を愛することなのです。
それゆえ人間は、「敵までも愛する」その愛を通して自分の人格を示すべきです。人々はほとんど、自分の倫理的な行為として、自分の生き方の姿を確認したがるのです。信者であれば、礼拝、祈りなど、宗教的な行為として、自分の敬虔さを示したがるのです。しかしイエスは、敵を愛することによって、自分の生き方を示すと言われました。
人々は、人々を区別なしに誰でも愛することによって、神様の姿に倣っていくのです。敵までも愛して生きる人は、神様が完全であられるように、彼も完全な者になります。世の道徳性とは、正しいのか正しくないのかという問題なのです。しかし、愛は正しいのか正しくないのかの問題ではない。愛はその道徳の問題の上にある御姿なのです。
愛は人々が共に生きるために、神様が人間にお与えになった神様の御姿です。愛は道徳を超えて、人々が大切な命と同じ価値として、共に生きるようにします。それで、イエスはこのように言われました。「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。」ということです。