おはようございます。香川県坂出市で牧師を務める、吉田崇です。
今から500年前にキリスト教会の宗教改革の口火を切ったルターという方が、こんな言葉を残しています。「たとえ明日、世界が滅亡しようと、今日、私はリンゴの木を植える。」
お聞きになって、耳を疑った方もあるのではないでしょうか。リンゴの木は植えてからすぐにリンゴの実をならせるものではありません。「桃・栗3年、柿8年」という言葉もあるとおり、果物の木は植えてから収穫できるまで長い年月がかかります。そうであるなら、明日世界が滅亡するというときにリンゴの木を植えても、無駄なだけだ。それが常識的な反応ではないかと思います。ただ、やっても無駄だ、というのはどうやって判断されるのでしょうか。やった本人が仕事の成果・報いを自分の手に入れられるかどうか、というところで判断されるのではないでしょうか。
しかし世の中「ああ、やってよかった、成果が出た、報われた」と思えることばかりとは限りません。病院に入院される方、老人介護施設に入られる方の中には、看護、介護をしても体の状態がよくならない場合もあります。感謝の言葉、お礼の言葉を発することすらできなくなる方もおられます。身体的、精神的にハンディキャップを負っておられる方に対する支援の働きについても同様でしょう。
自分がやってきたことに目に見える成果がない、報いがないと思えた時、力を注ぐことがばからしくなり、やっても無駄だと決めつけてしまうのではないでしょうか。そこから、「こんなやつなど死んでしまえばいい」と思ってしまうこと、果ては実際に手をかけてしまうことまでは、それほど遠くはないと思います。
そんな思いにかられてしまう人間に対して、聖書は「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サムエル上16:7)と語り、人の眼に見える表面の行動だけでなく、人には見えない内心の思いまでも神様が見通してくださることを示しています。
さらにキリストは、苦しむ者を助けた人に対し終わりの日の審判において「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25:40)と言って栄光の神の国に入れてくださいます。
ですから、キリストに導かれつつ、神様の御心に適うことを行おうと努めるなら、どの働きも最早無駄になることはないのです。たとえ明日、この世界が終わることになろうとも。キリストのもとで自分の働きが決してむなしくなることがない人生を、あなたも送っていただきたいと願います。