おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
先日、ある人から「聞かれない祈りってあるのでしょうか。」と質問を受けました。
これはキリスト教に限らずとも、聞かれない祈りというものがあることは、明白なことであるように思われます。たとえば、Aという国とBという国が戦争を起こしたとします。Aの国の人々は、自分の国が勝利を収めるようにと祈ります。同様にBの国の国民は、自分たちが勝ちますようにと祈ります。この場合、Aの国が勝てば、必然的にBの国の祈りは聞かれなかったことになります。
こんな複雑な問題を持ち出すまでもなく、たとえば、寝る前に「明日、目が覚めたら、大金持ちになっていますように。」と祈ったとします。明日の朝になれば、その祈りが聞かれたか、聞かれないかは明白です。そしておそらく、そのような祈りは聞かれないでしょう。
そもそも、祈りとは何でしょうか。人はなぜ祈るのでしょう。もし100%実現可能であることを、人は祈るでしょうか。おそらく祈りはしないでしょう。ただ、人間にとって100%ということ自体があり得ないので、万が一に備えて祈ることはあるかもしれません。
そして、祈りをささげる相手は、それをかなえてくれる権威と実力がある相手でなければなりません。祈りをささげる相手が自分と同じ程度の権威と実力であるなら、祈る意味がありません。必然的に神あるいは超自然的な存在ということになります。
では、そのような相手は、なぜ最初から祈りをかなえてくれないのでしょうか。可能な答えは何通りかあります。一つは、神はいちいち一人一人の必要をご存知ではないから、言われるまでは気が付かない。あるいは、神はすべての人の必要をご存知であるけれども、本人がその必要を自覚するまで放置しておかれている。あるいは、神は人間の熱心さを試しておられるので、熱心な祈りにだけ答えようとされておられる。ざっとそんなところでしょうか。
しかし、聖書の答えは、そのどれでもありません。イエス・キリストは「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ。」(マタイ6:8)とおっしゃって、自分の願いを神にくどくどと押し付けるような祈りを非難されています。キリストが求めておられる祈りは、神の御心がなるようにという祈りです。(マタイ6:10参照)。しかし、それは、自分の願いを一切口にしないで、ただ、神の御心が成りますように、とだけ祈る祈りではありません。実際ゲツセマネの園でキリストが祈った祈りは、「この杯をわたしから取りのけてください。」という祈りでした。それは自分を十字架の死に遭わせないでくださいという意味の祈りです。
キリストは自分の心の願いを述べたあとで、「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と加えました。祈りとは、自分の願いが御心にかなうことを求めることです。それは、神の思いを自分の思いに一致させることではなく、神の御心に自分の思いを明け渡すことです。
結局、祈りで大切なのは、自分の思い通りに事が成就したかどうかではなく、祈りを通して、神の御心がどこにあるのかを謙虚に聞こうとする姿勢です。