おはようございます。平和の君教会の山下です。
昨年の7月に神奈川県の重度知的障害者施設・津久井やまゆり園に深夜元職員の男が侵入し、19名の命が奪われ26名の重軽傷者を出した殺傷事件が起こりました。記憶に新しい方もおられることでしょう。当事者及び関係者そしてその事件を知らされた私達も何と恐ろしく、又腹立たしく無念な思いを強く抱かせられました。
キリスト教会では弱さの中にこそ神の力が働くことを信じ、障害を負った人達の福祉施設を建て共に歩んできました。わたし自身も前任の教会と現在の教会にて、様々の障害を抱えた方やご家族との繋がりを通してどんなに誤解や偏見・差別の思いから解き放たれてきたか分かりません。
今回の事件によって障害を持った方と地域の交流が途絶えてしまわないように、又犯人を特別で凶悪な変質者に仕立てて(犯罪は憎むべきものですが)、臭いものに蓋式に社会の片隅に葬り去らないようにと願います。そして犯人の内にある悪と罪とを私たち自身も持っていることを謙虚に認め、それにしっかり向き合うことが今後こうした悲惨な事件が再び起こらない手だてとなっていくことを祈るものです。
さて今日の箇所には、主イエス・キリストが弟子達に、わたしを何者と思うか、とお尋ねになったのに対し、弟子のペトロが「あなたは神からのメシア、聖い神の子です」と答えた出来事が記されています。「ペトロの信仰告白」と呼ぶ、私たちがイエス・キリストを信じてクリスチャンとなる大事な事柄です。この告白をする者は教会は入会させることが許されます。
このペトロの信仰告白は、確かにこの時点では正しい告白でした。しかし、そのお方は私たちの罪のために十字架にかけられて殺される救い主であることは未だペトロには受け止められませんでした。どうして聖い神の子が無様で惨めな十字架の死を遂げなければならないのかが分からなかったからです。
その事は更に主が十字架にかかって死なれ、3日目に墓から蘇られた時にも弟子達は信じることは出来ませんでした。主が死を打ち破るよみがえりのみ力をお持ちであることが分からなかったためです。
この事は何を意味するのか、それはこのお方を私たちはもう分かり切ったと固定観念的に一面的にのみ受け止めてはならないことを教えるものです。イエス・キリストとは一体何者なのか、キリストご自身を見つめる、その問いを問い続けることの大切さを示されます。と同時に、それは私たち自身についても同じことが言えるのではないでしょうか。どうせ自分はこんな者に過ぎないと半ばあきらめ、見限るという枠をはめてはいないでしょうか。
先の事件で私たちは犯人はこういう人物である、又障害者はこんな人だというふうに固定観念的にだけ受け取っていると、その実体や真実を見失ってしまうことになるのではないでしょうか。よくマニュアル化する、類型化することが今日の社会の考え方・やり方かも知れませんが、そうすることでその本当の姿を受け止め損ない、あらぬ方向へそれていってしまい、正しい解決の糸口や命の通った結びつきを断ってしまうことのないようにと願うものです。
この放送をお聞きになっている皆様お一人お一人がキリストをしっかり見上げる事を通して、自分の内にある罪に気づかれ、それを認め、イエス・キリストを罪からの救い主と信じ、聖い神の子供とされることを切に祈ります。