おはようございます。平和の君教会の山下です。
この放送を聞かれている方の中には年輩の方もおられるでしょう。老後をどのように過ごすか、生きるかは切実な問題であると同時に大きな不安です。かく言うわたしも60歳を過ぎた頃から引退後はどうしょうかとの問いを突きつけられています。
あるファイナンシャルプランナーによれば 、老後の蓄えには最低3000万円必要とか4000万円要るとかのデータもあるとのことです。そんな大金を用意できる人はそう多くないし、大半の人は限られた蓄えの中でどのように生活すれば良いのか、折り合いをつけていく他はないと思います。もしでき得るなら引退後も健康ならば少しでも収入があればと願う次第です。
今日のところでイエス様は、私たちに「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってはどうすることもできないからである」とおっしゃっておられます。ここで「貪欲」とは、「過度な求め・要求」のことであって、分を超えた事と言い換えてよいでしょう。どうして貪欲がいけないのか、それは人の命は財産によらない、その人の持ち物にはよらないからなのです。その命とは生命だけではなくその人の人生をも含めるものです。このわたしの人生を握っておられるのは一体誰なのか、その問いかけでもあると思うのです。
ある教会で夏期伝道の神学生(牧師の卵)を迎えられました。多くは若い方が多いのですが、その年は年輩の方をしかも夫婦で遣わされ、お二人とももう70歳を超えていらっしゃったのです。 どうして神学生になられたのか、その経緯を聞く機会がありました。
夫人の方は、ミッションスクール出身で若い時からクリスチャンとのことでした。けれどもご主人は、バリバリの商社マンで海外勤務も経験され、退職までは教会に行かれたことは全くありませんでした。しかし退職後、奥様と一緒に教会に行かれることになったのです。それは、毎日曜日教会に行かれる奥様の後ろ姿を見ておられたのと、ご主人の性格をご存じで無理強いされなかったことによるのだそうです。教会に出席されやがて洗礼を受けられ、公開講座で聖書を学ばれたことから遂に神学校にまで行く決心をされました。
奥様はご主人が退職されるまでは、老後は文化教室に通い、年に1、2回温泉つきの旅行をと考えておられたのです。けれどもご自分に大変な病気が見つかり、郊外の病院では対応できず、都心の病院近辺でなければならず、自宅を売り払い引っ越しされました。持ち家も健康も老後の楽しみも失ったのです。
友人たちはどうして悠々自適な生き方を捨ててまで神学校にいくのか猛反対されたそうです。しかし今、夫婦そろって神学生となり、聖書を深く学ぶことの楽しさと教会に仕えることの喜びとで一杯にされておられるとのことです。
この世の幸福という物差しとは違った天国の祝福という物差しで自分の事や境遇を諮られるようになったのです。ご夫妻とも、失ったものより、主から与えられる歩みや恵みを何にも勝って感謝をもって受け止めておられます。何故なら主イエス・キリストご自身が十字架にかかって死んで下さることによって私たちのために貧しくなられたからなのです。それは御子の死によって私たちが豊かになるためでした。
この主イエスの命に活かされる幸いこそ何よりも尊いのです。人の命は持ち物によらない、財産にはよらないとの主イエスのお言葉の真実と深い意味とを私たちも味わいましょう。年をとるともう何もすることはないのではなく、老いてますます主の前に豊かな生き方がある、そのことを願い求めていきたいと思います。