ご機嫌いかがですか。所沢ニューライフ教会の玉井宜行です。
主イエスは一つのたとえ話を語られました。それは、誰よりも聖書をよく知っていると自負しているファリサイ派の人と、社会からのけものにされていた徴税人の祈りを比較した、たとえ話でした。
ファリサイ派の人は次のように祈りました。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者ではありません。断食や献金を一生懸命に実行しています。」と。しかし徴税人は、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら祈りました。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」と。主イエスは、神様が祈りを聞き上げたのは、ファリサイ派の人ではなく、徴税人だと言われたのです。(ルカ18:9-14参照)
私たちに置き換えてみましょう。仕事や勉強が上手くいっている時には、その成果を一つ一つ数えながら、嬉しい気持ちになります。それはそれで本当に楽しい時です。しかし残念ながらそのような時ほど、神様の存在を忘れ、自分を中心にした祈りをささげてしまいます。
一方で、様々な試練や困難の中にある時には、自分の無力さを痛感し、神様に頼らざるを得なくなります。それは悲しい日々かもしれません。しかしそのような時の祈りこそ、神様を近くに覚える、深い祈りなのです。私たちには本当に難しいことですが、砕かれた低い心で祈る時、神様はその祈りを喜んで聞いてくださり、あなたを暗闇から光へと救い出してくださるのです。