いかがお過ごしでしょうか。国立聖書教会の野島邦夫です。
今週はヨハネによる福音書3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」の魅力を、改めて考えています。
神の愛は、その独り子を人間イエスとしてこの世界に遣わし、イエスが十字架の死を遂げられたとき頂点に達しました。ですから、「愛する」ではなく「愛した」です。この独り子を死に渡すという、父にとっては自己犠牲に他ならないことを、何のために神はされたのでしょうか。
今回は触れなかったこの節後半にあるように、「独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るため」、つまり人が救われるためです。神の愛を知って、神と人を再び愛せるように魂が変えられるためです。
この神の自己犠牲は、文の枝の部分「その独り子を与えた」で明確にされます。「与えた」とはどういう意味でしょうか。天の父なる神が子なる神をこの世界に遣わされた、ということですが、遣わした、ではなく与えた、とあります。神を愛さない人間界に独り子を送ったらどうなるか、無事で帰ってくることはない、迫害しかありません。そして現にそうなりました。それがイエス・キリストの十字架の死です。それを父は覚悟して送ったのですから、「与えた」です。
この決定的な事件は既に起こりました。「その独り子を与えた」は実は枝どころではなく、むしろこの木全体の果実です。