いかがお過ごしでしょうか。国立聖書教会の野島邦夫です。
今週はヨハネによる福音書3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」の魅力を、改めて考えています。
決定的に重要なのが、主という名の唯一の「神」が主語、ということでした。ではこの「神」が何をどうされたのでしょうか。この世界を、存在するすべてのものを、特に人間を愛された。
愛するという言葉があることが、この聖句が好感を与える第一の理由でしょう。愛はロマンティックです。素敵な人に出会って、好きになりたい、好きになってほしいと誰でも思うもので、愛を嫌いという人はよほどのへそ曲がりでしょう。
けれども、このような「愛情」という日常的意味をこの聖句にあてはめても、意味が通じません。愛する恋人のためには、人は相手を喜ばすことなら何でも、時間と労力を惜しまず使い、時に命を捨てることさえあると言えば、意味が近づきます。そうです、愛するとは、相手を自分より大切にすることです。相手のために自分の大切なものを捧げることです。
自分が捧げることができる最大のものは、自分の命です。神がこの世界を愛されるというのは、端的に、神が自分の命よりこの世界、特に人間を大切にされることです。
聖書とは、一言で言うと、私たちへの神の愛の告白書で、その頂点がこの聖句です。