いかがお過ごしでしょうか。国立聖書教会の野島邦夫です。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」ヨハネによる福音書3章16節を、最も好きな聖句だと多くの方が言われます。
確かに音の響きも美しいです。それ以上に、キリスト教の根本的な教えが詰め込まれているという意味で重要です。今週はその深い魅力をもう一度考えましょう。
この文の幹は「神は世を愛された」です。そして何よりも大切なのは主語「神は」です。神がすべてのことをされる。何事にしろ神が主語―これが聖書の根本点です。ところが、私たちには非常に理解しにくい、頭でわかっても腹にはまりにくいのです。逆に「私が主語」で考えますから。日常生活ではそれでいいのですが、宗教については困ります。
例えば商売がうまくいかない時、何かに頼りたいと、宗教心のおもむくまま、商売繁盛の御利益のある神を求める、時に作り上げる。これが「私が主語」の宗教観です。多くの場合がこの順序の考え方ではないでしょうか。
キリスト教では逆です。主という名の唯一の神が出発点であり主語です。では、主は何をされたのか・されるのでしょうか。
大きく二つあります。人間をはじめこの世界のすべてのものを、無から創造されて支えておられることと、救われることです。合わせて、「神はこの世界を愛された・愛される」です。