おはようございます。綱島教会の小宮山裕一です。今日はひととき、聖書のお話をさせていただきます。よろしくお願いします。
食欲の秋です。野菜や果物が美味しい季節になりました。大地の恵みはこの世界をお造りになった神様からの素晴らしいプレゼントです。喜んでいただきたいものです。
さて、聖書には食事の場面が登場してきます。食事は一人で食べることもあれば何人かで食べることもありますが、何人かで食べる時にその場の雰囲気というのはとても大切です。ケンカをしてしまった後の夫婦の食卓など、なんとなく気まずい雰囲気のテーブルもあるでしょう。
聖書において、この食卓は気まずいと私が思うのは、復活したイエスが弟子達に食事を準備した場面です。イエスは十字架につけられ、3日目に復活をしました。そして、復活の朝、弟子達の前に現れました。その時、弟子達にあさごはんを用意しました。
弟子達からすれば、なんともいえない気まずさがあったと思います。なぜなら、弟子達は3日前に、イエスを裏切ったからです。裏切った人が目の前にいる。しかも、食事を用意してくれている。
しかし、イエス・キリストがこの食卓を準備したのは、彼らのことをせめたり、追求したりするためではなく、彼らを赦しているからです。食事に招くというのはその人が確かに赦されていることの証明なのです。
教会において、この赦しの食卓が用意されています。一人一人を主イエスはこの食卓へ招いてくださっているのです。