ご機嫌いかがですか。南越谷コイノニア教会の黒川豪です。
わたしたちは、普段の生活の中で、あまり羊に接することがないかもしれません。羊に会いたいと思ったら、動物園に行ったり、牧場に行ったりすることになるのだと思います。しかし、パレスチナにおいては、主イエスが地上の生涯を歩んでおられたときにも、今でも、羊がたくさんいます。
そして羊飼いは、一匹一匹の羊に名前をつけており、羊の名を呼んで連れ出します。羊は、とても無力な動物であり、仰向けにひっくり返ったら自力では起き上がれず、迷子になったら、羊飼いに見つけてもらわなければ、群れに戻ることができません。
わたしたち人間は、自分は羊のように無力ではなく、自分の力で人生をどのようにでも乗り切っていけると思っているかもしれません。しかしわたしたちは、罪とその結果としての死に対して、全く無力です。
主イエスは、ヨハネによる福音書10章11節で「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」と語っておられます。
主イエスは、「わたしはある」、すなわち主なる神、全能の神として、わたしたちにとって「良い羊飼い」となってくださるお方です。「良い羊飼い」とは、単に道徳的に善良な羊飼いという意味ではなく、美しい羊飼いという意味です。主イエスは、わたしたちの罪をすべて背負って、十字架の上に命を捨ててくださり、3日目に復活なさり、永遠の命をわたしたちに与えてくださるという意味で、「良い羊飼い」なのです。