ご機嫌いかがでしょうか。南越谷コイノニア教会の黒川豪です。
皆さんの多くは、高校受験や大学受験などを経験したことがあると思います。競争率の高い高校や大学などのことを「狭き門」と表現することがあります。この「狭き門」という言葉は、元々聖書にある言葉であり、主イエスご自身が、マタイによる福音書7章13節で「狭い門から入りなさい。」と語っておられます。「狭い門」とは、どんな「門」のことなのでしょうか?
主イエスは、ヨハネによる福音書10章9節では、「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」と語っておられます。
つまり、イエス・キリストご自身が、「わたしはある」、すなわち、主なる神、全能の神として、わたしたちにとって「門」であられ、「狭い門」そのものであられるお方なのです。
イエス・キリストという「門」は、激しい競争を勝ち抜いた後にやっと入れる門ではありません。主イエスの招きに応えて、主イエスの御許へ行けば、主イエスを信じれば、だれでも通って入ることのできる「門」であり、イエス・キリストという「門」を通れば、だれでも救われる「門」です。
わたしたちは、イエス・キリストという「門」を通って入るなら、必ず救われ、永遠の命を受けることができるのです。しかし、イエス・キリストという「門」以外には、救いはありません。そういう意味で、「狭い門」と言うことができるのです。