おはようございます。ごきげんいかがでしょうか。新所沢教会の長田詠喜と申します。
今日も神様について、聖書が語っていることを見てまいりましょう。
聖書の神様といえば愛のお方であるということ、これはもう常識と言ってよいほど良く知られたことでしょう。けれども、改めて愛とは何かと聞かれますと、上手に答えることができる人は少ないかもしれません。愛、愛と言いながら、愛を自分の思いを満たすための道具、他人との取引の道具のように使う人がおりますが、これは間違った愛の理解です。
昔の日本では、愛とは欲望の一つであり、執着心の一つの形でした。愛することは物事に執着することであり、それは必ず足りなさに不満を覚えたり、得たものを失う悲しみを伴うものであると考えられておりました。そこで執着しないこと、愛に留まらないことが私たちの目指すところであるとされたりいたします。
聖書の神様はむしろ私たちに執着なさるお方です。聖書では「わたしは熱情の神である。」と言われてますが(出エジプト20:5)、口語訳聖書では「ねたむ神」と訳しておりました。人間の目からは執着心に見えるような強い感情をもって、神様は私たちに思いを向け、私たちを大切にしてくださいます。私たちを失うことを惜しみ、ご自分の独り子であるイエス様を献げてまで、私たちを救ってくださったのです。これこそが神様の愛なのです。
私たちを見つめ、見守ってくださる神様の愛を心に留めてまいりましょう。
聖書を読みます。詩編13編6節
「あなたの慈しみに依り頼みます。わたしの心は御救いに喜び踊り、主に向かって歌います「主はわたしに報いてくださった」と。