いかがお過ごしですか。新座志木教会の杉山です。
主イエスが特に親しい12人の弟子を持っていたことは有名ですが、その中のマタイが弟子になる様子が詳しく描かれているところがあります。彼は税金徴収の仕事に関わっていました。それは当時の社会では、同胞を裏切る仕事についていることを意味しました。
ところが、主イエスは彼を弟子にし、さらにその家で一緒に食事をしました。すると、そこに「徴税人や罪人も大勢やってきた」と聖書は続けて書いています(マタイ9:10参照)。
ここではっきりしますのは、食事に集まっていた人たちは、当時の社会で悪人に分類されてしまっている人たちだった、ということです。これに対して、当時、正しい人、神の側に立っているとされていたファリサイ派の人たちは、なぜあんな連中と一緒に食事をするのか、と弟子たちに尋ねたようです。主イエスはこれに答えて、「神が求めるのは、憐れみであっていけにえではない」という聖書の言葉を示されました(9:13参照)。ここにはある思いが込められているのではないでしょうか。
一つは、目の前の現実について、神の視点から見るとどうなのか、という問いであり、もう一つは、自分が間違いなく正しく、悪いのはあいつらだという見方は本当に正しいのかという問いです。
誰かを悪者にするのはとても簡単ですっきりする考え方ですが、おそらく、そこに神の思いはないのです。むしろ、「あいつが悪い」という思いを持つことがすでに、悪に取り込まれているのではないかと、主イエスは問われたのです。