ご機嫌いかがですか?川越教会の木村恭子です。
新約聖書マルコ8章に盲人の癒しの記事があります。
イエスはこの時、目が見えない人に手を引いて村の外へ連れ出し、彼の目に手を置いて癒されました。主イエスご自身が彼の手を取って、癒しの場所まで導き、それから彼に触れて、見えるようにしてくださったのです。
すると彼は、「人が見える。」と言いました。彼は「見える」と言いましたが、完全ではありませんでした。人が木のように見えたのです。それで、イエスは更に、彼の目に触れまして、本当にはっきり見えるようにしてくださいました。
これは盲人の癒しの話ですが、この話の前後関係から考えると、私たちの信仰の歩みについて教えられていること、とも思われます。
私たちが神の愛も、イエスの恵みも、何にも見えていない時に、イエスは私たちの手を引いて、癒しの場所へ、神の愛と配慮の中へ、まず導き入れてくださいます。そして、私たち一人一人に触れて、神の愛が見えるようにしてくださるのです。
私たちは、見えている、よくわかっていると簡単に言いますが、実際には見えていないこと、わかっていないことがたくさんあります。そんな風に強情に言い張る私たちに、まだ十分に見えていない、まだ完全にわかっていないと、イエスは語りかけ、そしてご自身を示してくださるのです。