いかがお過ごしですか。新座志木教会の杉山です。
聖書には一人の男性の蘇りの様子が描かれた箇所があります。それは埋葬された墓から出てきましたラザロという人の話です。
彼は主イエスが普段からエルサレムの滞在先にしておられた家の住人でした。この人は確かに一度死んで、そして蘇ったのですが、問題はそのころ、誰もそのようなことが起きるとは信じていなかったし、期待もしていなかったということです。
私たちは聖書の時代の人たちは、簡単に奇跡を信じる素朴な人たちだったのだろうと思っているところがあります。しかし、決してそうではなく、経験的にあり得ないことはあり得ないと言い切るということでは私たちとほとんど違いはないようです。
このところでは、弟子たちも、ラザロの家の二人の姉妹も、町の人たちも誰一人として、主イエスの言われた「彼を起こしに行く。」という言葉の意味を理解していませんでした。けれども主イエスは、あの死んでしまったラザロを墓から呼び出される前に、このように祈って言われました。「しかし、私がこう言うのは、周りにいる群衆のためです。」
人の命と死とは、自分たちが理解している通りのもの以上でも以下でもない、と決めつけております人々に対して、実は、神様こそは人の命をどのようにでも取り扱うことができるし、命にはいろいろな形があるかもしれないし、人生の意味も複雑であることを理解するため、ただそのために、ラザロを墓から呼び出すことをします、と主イエスは言われたのでした。