いかがお過ごしですか。新座志木教会の杉山です。
私たちは、説明ですとか、透明性といった言葉が意外に好きなのかもしれません。何かおかしなところがありますと、それを明らかにしたくなります。
昨年以来の東京都の施設についての議論もそのような所があったのかもしれません。その場合に、私たちは、本当のことが明らかになりさえすれば、すべては正しく判断できると考えていることになります。けれども、私たちは、明らかになったことを、そのままに受け止められない場合があるようです。
聖書には、ファリサイ派と呼ばれる人たちが登場します。とてもまじめな人たちで、聖書の学びと律法の実践のために日々心を砕いていた人たちです。
ある時、主イエスが目の見えない人を癒されました。その日は安息日、律法によれば仕事をしてはいけない日でした。そのことを知りました時に、ファリサイ派の人たちは、主イエスが良いことをされたという単純な事実を認めようとしませんでした。そして、その癒され、見えるようになった人に向かって「なんで目が見えるようになったのか。」としつこく尋ね続けたのでした。
主イエスが、神様のお働きをしているという単純な事実を受け入れたくないために、長々と議論をしている人たちに対して、最後に主イエスは言われました。「見えるものは、見えないようになる。」と。
どれほど聡明であっても、あるいはそうであればこそ、立場にとらわれている限り、見えるものも見えなくなると言われたのです。