聖書を開こう 2016年11月3日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 尊く素晴らしい約束(2ペトロ1:1-4)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 きょうから新しい個所の学びに入ります。「新しい」といっても、前回まで学んできたペトロの手紙一に引き続いて、ペトロの手紙二の学びとなります。

 新約聖書にはペトロの名前で書かれた手紙が二通残されていますが、きょうから取り上げるのは二番目の手紙の方です。古くからの習慣に倣って、一と二という番号がそれぞれに振られています。その場合、一般的には数字の若い方が先に書かれたということを示しています。もちろん重要性の順番で一と二とを区別することも、一般論としてはあるかもしれません。しかし、ペトロの手紙の一と二とを読み比べてみて、どちらがより重要であるか、決定的な違いを見出すことはできません。ですから、書かれた順番で、そのような番号が付けられたと考えてよいでしょう。

 もちろん、もともとの手紙に番号がついていたわけではありませんから、本当はどちらが先に書かれたのかは、番号の大小とは別の問題かもしれません。ただ、きょうから取り上げる手紙の方が後から書かれたかもしれないと思わせる言葉が、本書の中にないわけではありません。

 3章1節で手紙の著者はこう記しています。

 「愛する人たち、わたしはあなたがたに二度目の手紙を書いていますが、それは、これらの手紙によってあなたがたの記憶を呼び起こして、純真な心を奮い立たせたいからです。」

 この手紙が二度目の手紙であるという言葉から、本書が第二の手紙と呼ばれるようになったのだと思われます。もちろん、ここで想定されている最初の手紙が、現在の『ペトロの手紙一』であると断定はできませんが、それを強く否定する証拠を見出すこともできません。おそらくは、ペトロの手紙一と二は、同じ著者が書いた二つの手紙で、しかも、この順番で書かれたものと思われます。

 それらの詳しい議論については、他の研究書に譲ることにして、早速今日の個所に入りたいと思います。きょうの聖書の個所は新約聖書 ペトロの手紙二 1章1節〜4節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエス・キリストの僕であり、使徒であるシメオン・ペトロから、わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ。神とわたしたちの主イエスを知ることによって、恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。
 主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちを御自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです。この栄光と力ある業とによって、わたしたちは尊くすばらしい約束を与えられています。それは、あなたがたがこれらによって、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになるためです。

 今お読みしたのは、手紙の冒頭部分です。どの手紙でもそうですが、そこには手紙の差出人と宛先、挨拶の言葉が記されています。

 差出人に関して言えば、最初の手紙と違って、自分が誰であるかについて、言葉数が多くなっています。自分の名前そのものもギリシア風の呼び名「ペトロ」だけではなくヘブライ的な名前「シメオン」も名乗っています。そして、それに加えて、イエス・キリストの「使徒」を名乗る前に自分がキリストの「僕」であることを先に述べています。

 これらの変化にどれほどの意味が込められているのかは、本人に聞いてみなければわかりませんが、もし、特別な意味が込められているのだとしたら、あえてヘブライ的な名前で自分を紹介した方が良いと思われる読者を想定して手紙を書いているということでしょう。また、「使徒」と名乗る前に「僕」であることをあえて加えたのには、主に仕える者である姿勢をより読者に伝えたかったからでしょう。

 ここで「僕」と訳されている言葉は、他の個所では「奴隷」と訳される言葉ですが、おそらくペトロがイメージしているのは、ローマ社会に見られる「奴隷」ではなく、モーセが「主の僕」と呼ばれたような、ヘブライ的なイメージであったと思われます。とするならば、シメオンと名乗ったことも、僕であることをあえて加えたことも、読者に多くのユダヤ人キリスト者を想定していたのかもしれません。

 それに対して、手紙の受取人についての記述が、最初の手紙と比べて、漠然としています。第一手紙では「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ」と、宛先人の所在地が具体的に記されていました。それに対して、第二の手紙では「わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ」となっていて、「どこの誰」という具体的な宛先がありません。言い換えれば、信仰者であればだれが読んでもよい手紙であるといえるかもしれません。

 ただ、ペトロの頭の中では、この手紙を受け取るはずの人々は具体的であったはずですから、漠然とした信仰者に宛てた手紙ではなかったはずです。少なくともこの手紙を託されて届けた人物は、この手紙の具体的な宛先を知っていたはずです。おそらくは回覧さることを前提に、あえて、具体的に宛先を書かなかったのでしょう。

 続く挨拶のことばも基本的な内容は第一の手紙とほぼ同じです。「恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように」という内容です。ただ、第一の手紙と比較して、「神とわたしたちの主イエスを知ることによって」という言葉が加えられています。言い換えれば、神と主イエスを知ることなしには、恵みと平和が増し加わらないということです。積極的な言い方をすれば、神と主イエスを知るところにこそ、恵みと平和が増し加わるということです。

 これは、「神」だけではなく「主イエス」をも加えたところに大きな意味があります。主イエスを抜きにして、恵みと平和がないとするのは、明らかに旧約聖書だけにとどまり続けるユダヤ人たちに対する挑戦です。

 さて、3節から手紙の本文に入りますが、ここでは、神がどんなことをなさってくださったか、その恵みが語られています。福音とは神が恵みをもってわたしたちのためにしてくださったことを語ることです。そういう意味で、ペトロは手紙の冒頭で福音を語っています。

 もちろん、ヘブライ的な表現で神を主語にたてずに「わたしたちは尊くすばらしい約束を与えられています」と受け身の形で表現されていますが、言い換えれば、神が素晴らしい約束を与えてくださったという福音です。しかも、新共同訳聖書がいみじくも意訳しているとおり、その主体は「主イエス」です。主イエスが命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださったように、尊くすばらしい約束をも与えてくださったのです。

 それは、神の本性にあずからせるためであるとペトロは語ります。言い換えれば、罪に腐敗した性質をまぬかれて、完全な救いにあずかるということにほかなりません。この約束がわたしたちの信仰の歩みを支える希望となるのです。

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